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山岳地理レポート  

REPORT-02-2-8

金峰山表参道の古道を辿る

−できるだけ正確に歩いた−

               富永 滋


第二部   通行記録

8 御小屋沢造林記念碑〜御室小屋跡

9 御室小屋跡〜金峰山

第一部 こちら

1 吉沢一ノ鳥居跡〜太刀抜岩分岐(上道経由)

2 吉沢桜橋〜太刀抜岩分岐(下道経由)

3 太刀抜岩分岐〜金桜神社下三ノ鳥居

4 金桜神社下三ノ鳥居〜根子坂(猫坂)上

5 根子坂(猫坂)〜下黒平

6 下黒平白雲橋〜龍ノ平

7 龍ノ平〜御小屋沢造林記念碑

8 御小屋沢造林記念碑〜御室小屋跡

 造林記念碑からは明らかに道の整備がよい。少なくともピンクテープの付いた今日の登山道を辿る限り、山慣れた登山道なら容易に通行できるが、ただしその場合は一部で古道と異なるルートになってしまう。

 原全教が「暗い見事な美林」と評した森林や、高野が報じた天然カラマツ林も、跡形もなく伐採され植林になっていたのは残念だったが、明るいカラマツ植林下の笹原は、手入れもマーキングも良好でとても歩きやすかった。一見ただの作業道に見えるが、周囲より凹んだ道型により古道と知れた。緩く単調な登りで約150mの高度を稼ぎ、唐松峠を越えた。御小屋沢と御子ノ沢を分ける尾根の乗越で、甲斐国志で「唐松嶺(トウゲ)」とする地点である。峠の手前に姥子ノ社があって側に七ノ鳥居が建っていたとされるが、それらしい痕跡は分からなかった。峠を越えるとカラマツ植林が終わり、ダケカンバ、モミなどの混成林になった。もともと金桜神社林であった豊富な金峰山の森林資源に目をつけた東洋遊園地(小野財閥のグループ企業)が、大正十一年に森林を買収し伐採を開始したため、昭和初期には既にこの辺りの伐採が進行していた。昭和十二年、森林は大昭和製紙系の会社に転売され、いよいよ大伐採の危機が迫ると、甲府市は幾多の交渉の末、水源林として買収した[34]。しかしその甲府市も、結局は市財政への貢献を求め、昭和三十四年の第二次経営計画により、唐松峠に近い白平三角点以奥の登山道沿い50m以内と標高2200m以上を除く部分で、多くの山林を伐採してしまった[35]。だからここまでは大部分が人工林であった。しかし御子ノ沢流域にまで来ると、初めて自然の山が感じられるのである。

 緩く下って、1826m三俣で小さな御子ノ沢を渡った。緩やかで広い別天地のような谷で道が消えたが、右俣の奥に見える道標に向かって進んだ。龍ノ平以来初めて見た道標には「金峰山」と示されていた。昭和期にはこの辺りまで伐採の手が及び、御子ノ沢沿いに木馬道が敷かれていたため、迷い込んで荒川へ下ってしまう登山者がよくいたと云う[7]。点々と打たれたマーキングに従い右俣を進むと、十米近いナメ滝があった。滝を右手から登る古道の上にちょうど倒木があったが、十分通過できた。マーキングはそれを避けて、微妙な泥壁を渡る踏跡を伝って右から大捲きしていたが、却って通りにくいように見えた。ナメ滝上で小尾根に取り付くと、道はまた明瞭になった。黒平と水晶峠を指す古道標を見て、苔むしたモミの美森を、点在する倒木を避けながら緩やかに登った。

 水晶峠(1925m)は、多くのガイドが記すように、知らずに過ぎてしまうような乗越だった。明治三十九年頃黒平の案内人と峠を越えた高野は、十数年前まで御室小屋の御師(小屋番)への連絡用の鐘を吊っていた朽ちた柱を此処で見たと記録している[5]。鐘の数で宿泊者の人数を知らせたとか、道に迷った場合鐘を鳴らし案内を頼んだとか諸説あるようだが、真偽の程も定かでないように思えるこれらの言い伝えは、本当だったようだ。御室川へ下り始めて百米近く行った辺り、標高差にして20mほど下った肩状の地点付近に水晶の採掘場があったらしい。多数の盗掘禁止の看板がこれでもかと架かっていた。どういう意図であるのか、「水晶峠」と記した私設標示板が立木に括り付けてあった。水晶峠は古来、御子ノ沢と御室川を分ける尾根の乗越を指すものであり、明らかに間違っている。意図を推測するに、明治四十三年測量の地形図は、現在私設標示版がある辺りに水晶峠と表示しているが、当時そこから荒川へ下る道が分岐していたため、製図の都合上「水晶峠」と表記する位置に制約が生じ、文字の位置がずれている。それを鵜呑みにして、峠の位置を誤解した結果なのかも知れない。明治四十年の荻野音松の記録では、「…(御室川から)坂路を上れば掌大の平地にある所に出づ、此処にて道又二分せるに、其の右を取りて更に上る事一町許り、遂に峠の頂上に達す、之れ即ち水晶峠にて…」と述べており[6]、大正十年に訪れた柏源一郎は、峠は頂にあり、そこに「水晶峠」の木標があったと記していることから[36]、知る限りの昔から、最高点が峠であったことは確かである。一時は黒平住民の生計を支えた水晶も、昭和の中頃までに取り尽くしてしまい、今は欠片さえ見つかるかどうかということだ。

 道は小さな谷に沿って急下した後、御室川に向かって緩く下っていた。この緩い下り部分で、ピンクテープのマーキングは、妙な踏跡を付けながら古道を外れていた。しかし薄い道型をよく見ると、古道は谷を御室川直前まで下り、川の右岸を登っていたことが分かる。もしマーキングを頼りに歩くと、上流側を御室小屋、下流側を黒平と示す御室川沿いの甲府市の道標の前に出るはずだが、その意味に困惑することだろう。本来の道は、その道標からさらに数十米下流まで行って水晶峠に取り付くのである。御室川右岸は巨石や倒木で道が荒れ、明瞭な道型が残っていない。ピンクテープは、右岸を百米ほど遡った所で、伏流した御室川の白い川筋に誘導しているが、灌木を潜るように古道らしき微かな道型がそのまま右岸に続いていた。それを更に百米ほど進んだ開けた場所が、刈合平と思われた。前述のように刈合平の位置は未だ特定されていないが、現時点では御室川右岸の東口参道に出合う地点を言うようなので、ここではそれに従った。石和、塩山から来る東口との合流点であり、毎年夏季に、南口と東口の村がそれぞれ下草の茂る参道の刈払いを行ったことからその名を得たと言う。現在の東口は一般に車でアコウ平へ入ってから徒歩となるが、その道は御室川右岸の刈合平に寄らず、川に出たらそのまま涸れた川筋を遡るようマークが付けられている。そのため南口、東口のいずれから来た登山者も、刈合平へ寄らないようになってしまった。国志よれば、刈合平には「苅合ノ社」と八ノ鳥居があったという。確かに、刈合平の角から金峰の五丈岩が思ったより近くに望まれ、また奥の方に曰く有りげな大岩があるなど、いかにも神域らしい場所である。

 刈合平付近から御室小屋にかけての道筋は、昭和の頃と現在ではすっかり変わっている。前述の通り、古い道は御室川左俣の伏流した河原を辿るものであったが、現在は1880m二股の中間尾根に取り付き、そのまま御室小屋跡に達する。令和二年現在のマーキングが示す現在の登山道と対照して説明するなら、黒平とアコウ平の分岐にある「←牧丘・塩山/水晶峠・黒平町↑」の甲府市道標の西約30mの森林中の開けた場所が刈合平で、刈合平の数十米北の伏流した白い小窪が賽の河原、そしてマーキングが御室川の河原から左岸の森林に上がるよう誘導している地点付近が、右岸の森から出てきた古道が御室小屋へと河原を辿り始める地点と考えられる。刈合平付近は白い大石の堆積で荒れた雰囲気があり、方向が定まらぬ様々な痕跡が周囲の森の中に付いていた。それらしい踏跡を拾って北上すると左からくる伏流した白い支窪を横切ったので、それが賽の河原なのかも知れなかった。踏跡不明瞭のまま前進すると、一直線に北上する御室川左俣の白い河原に出た。現在のルートが河原を辿る部分についたピンクテープを見なければ、ここが確かに御室川であるのか迷ったことであろう。テープが無かった時代の登山者は河原の石積みを見て道を判断したという。古道時代の登山者がそうであったことから分かるように、この辺りは古道の痕跡というものがそもそも存在しない。現在の道を辿る場合、テープと道標とで中間尾根に導かれ、森林中の踏跡で御室小屋跡に達するようになっていた。

御室小屋は老朽化で取り壊され、ロープで囲んだ空地に積んだ廃材の山になっていた。参拝が盛んだった頃の小屋からの登り口に御室神社と九ノ鳥居があったとされるが、小屋奥の遺跡のようなものがそれだろうか。正徳年間(一七一一〜一七一六)に建ったという数十名が泊まれる立派な宿坊は、二つの部屋と囲炉裏、座敷、土間、台所、風呂を備えており、明治三十年代に訪れた小島や高野は驚きを隠さなかった[5,13]。かつて賑わいを見せた御室の小屋も、明治五年の修験禁止令により急速に衰え、同二十四年以降は神社の御師も入らなくなり、黒平の村民が番をして鉱山事務所や登山小屋として使われていたそうだ。それも明治四十一年の火災により、小屋も社も灰に帰した[14]。その後再建するも火災や荒廃に見舞われ、十年ほど前(平成二十三年頃)から全く使用不能となっていたが、近年ついに解体されてしまった。

【時間記録】 御小屋沢造林記念碑-(35分)-御子ノ沢-(15分)-水晶峠-(10分)-刈合平[ここまで2020.11.17]-(10分)-御室小屋跡 [2020.9.21]



@ 一般道並の整備状態となり唐松峠へ

A幅の広い御子ノ沢を渡る

B古道は通らぬ刈合平近くの今の道標

C御室川左俣から森に入る現在の道

D御室小屋へ向かう現在の道

E御室小屋跡の廃墟



9 御室小屋跡〜金峰山

この区間は一般登山道と変わりない良い道だが、鎖場があるので問題なく通過できる技量と身体能力は必要だ。小屋裏からすぐに急登が始まった。登山者の多い東口を合わせたためか、一般登山道並のよく踏まれたシャクナゲの良道となった。新しいアルミ梯子の上は、傾斜したスラブに長い鎖二本が敷かれた数十米のトラバースで、トサカと呼ばれる岩峰の一角だ。御室川左俣の慶応谷側へ見た目に三十度ほど傾いており、墜死した慶大学生に因んで慶応谷と呼ばれるようになったと言われる。懸垂下降の要領で動けば危険はないが、実際濡れた箇所を踏んでみるとスリップしたので、緊張するところである。登り切ると、道は岩稜を上下しつつ捲いて進んだ。二本目のアルミ梯子は、古い木梯子と並び掛かっていて面白かった。三本目の梯子は古い木梯子の上に重ね掛けしてあった。原全教によれば、岩場を抜けた恐らく2030m辺りに御室小屋への回り道があったという。危険な岩場を通らずとも登れるものを、修行のためわざわざ厳しいルートで登るようになっているのだろう。

 道はしばらく慶応谷側を捲きながら登るようになる。2129mの不安定に置かれた巨岩は片手廻しと呼ばれ、足元に勝手明神の小祠がある。尾根に近づくたび岩が現れ、離れると深い森林になった。途中左への小さな踏跡をほんの数米辿ると、2212mの突起上で西から南への展望が素晴らしかった。2400m付近で森林を抜け、道型の不明瞭な石の多い尾根を登るようになった。近く見えるのになかなか距離が縮まらない五丈岩にがっかりしながら、黙々と登った。石が多く尾根形状が丸いためルートがやや不明瞭な山頂直下を、道を外さぬよう注意して登ると、五丈岩下の道標に飛び出した。

登り着いた場所は山頂側から見た岩の裏側で、立ちはだかる岩壁下に平らな場所があった。そこには明治十七年の火災で消失するまで、七重扉の厨子に黄金の大黒像が安置された壮麗な本宮社殿が有り、三十人の信者の宿泊が可能だったというが[7]、いまはその名残として、奥宮の小祠と、かつて本殿を乗せていた石垣が見られるのみである[16]。大黒像を盗み出すため火を放たれたのが火災の原因と言われている[37]。明治十七年の焼失時にはもはや修験道が禁じられていたが、金桜神社の努力によるものであろう、それなりに立派な本宮が再建された。明治三十九年頃に訪れた高野は、「構造小なりと雖も粗ならず」「板葺屋根を更に板囲ひしてあり」とする一方、「雨漏りて床も破れぬ」と傷んだ様子も報じている。「何某何講」の類の落書きが多数あったといい、まだ信仰は廃れていなかった[5]。高野は写真家でもあったため、寒風に吹かれつつ苦労して撮影した貴重な写真が残されている(図11)。この本宮も、明治四十二年に田部重治が通ったときには信者の火の不始末により再度焼失しており[37,38]、以後再建されることはなかった。五丈岩の名については、文化十一年の甲斐国志では「御影石」[1]、慶應四年の金桜神社の由緒書では「御像石」[8]、明治期の文献では「五丈岩」[6]と、年代とともに変化している。当初は少彦奈命が岩の像(カタチ)でここにおいでになる、の意味であったが、明治期に信仰が失われると共に、高さを表す「五丈」に訛ったとされる。由来を知らぬ多くの登山家が、「高さが五丈(約15.2m)ないのに五丈岩とはおかしい」とクレームを付けるのも、信仰心の消えた現代では仕方ないことであろう。原全教は、昭和十年以降の著書ではそのどれとも異なる「御像岩」を用いているが、塩川称とのことである[39]。殆どが大弛峠まで車で来るハイカーになった現在、五丈岩下の奥宮は岩の「裏側」であり、鳥居は山頂側から見える「表側」に設置されていた。訪問当日、山頂付近は登山客が密集していて、五丈岩の約百米北東の多数の大岩のうちどれが山頂なのか、はっきりとは分からなかった。

【時間記録】 御室小屋跡-(1時間30分)-金峰山 [2020.9.21]

@ 小屋跡裏から金峰への急登が始まる

A 新しいアルミ梯子が計三ヶ所に架かる

Bトサカ下の傾いたスラブの長い鎖場

C下降時は前向きなのでスリップが怖い

D 古い木梯子と並び架かる所も

E片手廻しの奇岩

【参考文献】
[24]山梨県立図書館編『甲斐国 社記・寺記 第三巻 寺院編 二』山梨県立図書館、昭和四十一年(初版は慶応四年(1868)、甲州寺社総轄職編)、「巨摩郡吉沢村 羅漢寺」207〜208頁。
[25]松平定能(編)・小野泉(校)『甲斐国志 巻之十九』温故堂(再版)、「巻之八十一 仏寺部第九」8〜13頁、明治十六年(初版は文化十一年(1814)、甲府勤番)。
[26]陸地測量部『五万分一地形図 鹽山』(明治四十三年測量)、大正二年。
[27]太田亮『姓氏家系大辞典 第一巻』姓氏家系大辞典刊行会、昭和十一年、「小田切」971〜973頁。
[28]国土地理院『空中写真(甲府)MCB6210X(1962/05/14)』、昭和四十七年、C4-11。
[29]北村武彦「金峰山集中登山」(『山と高原』二七六号、24〜27頁)、昭和三十四年。
[30]原全教『奥秩父回帰』河出書房新社、昭和五十三年、「金峰山附近」187〜189頁。
[31]三上浩文「猫坂」(『やぶ山をこよなく愛する登山ガイド 三ちゃんの山日誌』)
    http://mtgd3chan.blogspot.com/2016/12/blog-post_4.html、平成二十八年。
[32]実業之日本社編『東京付近の山』実業之日本社、昭和五十一年、「川端下から金峰山」120〜123頁。
[33]陸地測量部『点の記』、「物見測點」、明治三十七年。
[34]泉桂子「甲府市水源林の形成過程」(『東京大学農学部演習林報告』103号、21〜106頁)、平成十三年。
[35]泉桂子「甲府市水源林における戦後期の経営展開」(『森林総合研究所研究報告』五巻一号、29〜59頁)、平成十九年。
[36]柏源一郎『山谷の放浪者』三田書房、大正十二年、「十文字峠より金峰山を越えて」174〜258頁。
[37]春日俊吉『奥秩父の山の旅』 登山とスキー社、昭和十七年、「金峰山・水晶峠より甲府へ」200〜210頁。
[38]田部重治『山と渓谷』 第一書房、昭和四年、「十文字峠より甲府まで」228〜240頁。
[39]原全教『奥秩父・正編』朋文堂、昭和八年、「金峯山」104〜110頁。

令和三年二月二十八日 著す

付図




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