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山岳地理レポート  

REPORT-02-2-2

金峰山表参道の古道を辿る

−できるだけ正確に歩いた−

               富永 滋


第二部   通行記録

2 吉沢桜橋〜太刀抜岩分岐(下道経由)

第一部 こちら

1 吉沢一ノ鳥居跡〜太刀抜岩分岐(上道経由)

2 吉沢桜橋〜太刀抜岩分岐(下道経由)

 下道(外道)は、太刀抜岩下の外道ノ原までが退屈な車道になってしまったので、多くのハイカーは長潭橋から入山して外道ノ原で外道に合流するようになった。だから近年は通して歩く人はほとんどいなかったようだが、最近甲斐市が吉沢町内に幾つか道標を立てたので、今後また通行者が増えるかも知れない。主に下道が歩かれた江戸時代、古来の一ノ鳥居は失われていて、当時の参拝者は吉沢橋で荒川を渡り、吉沢から入山していた。現在は甲府からのバス通りが桜橋で荒川を渡っており、そこを起点とした。橋を渡って、吉沢集落を山に向かって真っ直ぐ抜け、Z字に山腹に取り付いた。その二つ目の角で常説寺からの道を合わせ、農業用の細い車道で、吉沢川右岸のヤブっぽい雑木林を進んだ。最近立てた真新しい「日本遺産・御嶽古道」の表示が、迷いやすい村内作業道の分岐のたびに付いていた。小さな橋で吉沢川を左岸に渡ると、少し登って別の車道に合流した。この舗装道を延々と奥へと辿るのである。この舗装道が古道とは信じがたいが、明治二十一年測量の最古の地形図[9]でも現在の車道と同じ位置であることから、古道の上に敷かれた車道と考えられる。第二次大戦後の北仙開拓の集落が出来たことで整備されたという[16]。同じ資料に、御岳発電所建設に伴う鋼管輸送を担ったともあったが、御岳沢左岸にあった発電所関連の道路がこれだとは、地理的に納得できない。高町集落あたりの話と混同しているのではなかろうか。一方、この谷の右岸に荒廃しつつも確りした歩道跡が続き、その一部は恩賜林の境界とも一致することも確認した。どちらが古道であったか、今となっては判断しようがなかった。例の「日本遺産」の表示板を見て、鹿柵を抜けると開拓集落跡に入った。畑跡や道路跡のみが寂しく残っていた。右側が伐採され禿山になった辺りで農機具を見たので、一部はまだ耕作しているのかもしれない。背後の山が風避けとなった南向きの暖かい谷で、吹きさらしの麓より良い土地のように見えた。一箇所だけ作業場か資材置場で使われている敷地があり、飼犬に酷く吠えられた。植林が出てくると、谷が二俣になり、一軒の廃屋があった。この奥の広範囲に点在する人家が北仙開拓の廃村で、現在は地図からも抹消されている。すぐに、上道で見た尾根近くの廃屋へ向かう未舗装道が分かれた。車道が簡易舗装になった。そこから約300m先が最終人家である。何棟かの建物があり、恐らく二世帯あるうちの一方は、住んでいるか分からないが作業場所などとしてまだ使われているように見えた。

 簡易舗装が終わり、農業用の軽トラックがやっと通るくらいの細い未舗装の車道になった。相変わらず広く緩い谷を詰めると、前方が高さ2〜30mの急斜面になり、車道は左から折り返し登っていた。渋江長伯が外道坂と呼んだ急坂である[15]。車道造成で分岐点が潰れているが、溝状になった明らかな古道の道型がそこを直登していた。僅か50mほどの長さだが、下道で初めて見る古い道型である。古道は回り込んできた車道に吸収されてしまい、以後しばらく、再び車道に呑まれて痕跡は見られなかった。坂を登り切ると尾根状地形なって道標があり、長潭橋からのハイキングコースが合流した。

 緩やかな尾根上は一面開拓時代の桑畑跡で、緩やかで平らな一帯だった。相変わらずの未舗装車道だが、道標やマーキングの整備が格段に良くなった。やがて山裾のだだっ広い野原のような場所に達した。ここが渋江が言う外道ノ原であろう。長らく耕作放棄された野原のような土地である。尾根の上へ登る作業車道が左に分かれるが、何しろ真っ平な荒地なのでその道を知らないと気づかないかも知れない。いま来ている車道も痕跡が薄くなりがちで、左に緩く曲がる部分に来ると、ハイキングコースのマーキングは古道を無視して直線的に進むようになっていた。誰が取り付けたものか古い未舗装車道を兼ねる古道の痕跡にもピンクテープが付いていたが、この付近は古道が恩賜林界になっているので、境界標を辿っていけば自然と古道を辿ることができる。いよいよ斜面が急になるところで開拓地が終わり、それと共に車道跡も終わった。古道はようやくそれらしい雰囲気になり、深い溝を刻みながら、斜め左にトラバースして登っていた。永年の倒木が積もって酷い荒れようだが、道型はまだ残っていた。右にカーブを切ると直進してきたハイキングコースを合わせて明瞭な道になり、電光型にどんどん登った。依然倒木は多いがマーキングが確りしているので心配なかった。この九十九折れの途中、790m付近の道標で千田への古い道が分かれるが、倒木に埋もれて気付き難くなっていった。この辺りを三聲返しと推測するが、確かなことは分からない。登るに従い、後方の眺めが開けるのが楽しかった。渋江が「虫喰岩」と評した面白い穴の開いた岩も、二百年前とかわらず右上の岩壁に刻まれていた。倒木を潜りながら、約十回の折返しで六五米ほどの高さを登った峠状が太刀抜岩分岐であり、ここで上道と合流した。

【時間記録】 吉沢桜橋-(40分)-北仙開拓最終人家-(10分)-長潭橋分岐-(15分)-太刀抜岩分岐  [2020.12.20]

@吉沢の常説寺近くを通って古道に入る

A観光用の立札が設置されている

B車道化されるも静かで雰囲気が良い

C人も車も鹿柵を抜けて進む

D廃村の開拓集落で唯一現役の作業場

E廃屋が点在する北仙開拓

F行けども車道が続く

G開拓村の最奥の集落付近

H廃車道化した車道がなお続く

I外道坂の登りは短区間の古道が残る

J平原に戻った外道ヶ原の畑地跡

Kハイキングコースと古道の分去れ

L一列の置石が耕地の境界

M倒木で荒れた古道

Nハイキング道が合流して良い道に

O三聲返し付近の分岐道標

P二百余年前の渋江長伯も見た虫喰岩

Qすぐ上で上道に出合う




3 太刀抜岩分岐〜金桜神社下三ノ鳥居










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