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山岳地理レポート  

REPORT-02-2-4

金峰山表参道の古道を辿る

−できるだけ正確に歩いた−

               富永 滋


第二部   通行記録

4 金桜神社下三ノ鳥居〜根子坂(猫坂)上

第一部 こちら

1 吉沢一ノ鳥居跡〜太刀抜岩分岐(上道経由)

2 吉沢桜橋〜太刀抜岩分岐(下道経由)

3 太刀抜岩分岐〜金桜神社下三ノ鳥居

4 金桜神社下三ノ鳥居〜根子坂(猫坂)上

甲斐国志の当時と変わらず、鳥居の東から御岳沢を左岸に渡り、集落内の細く急な車道を登り始めた。対岸の川沿いに元禄十一年(1698)の三界万霊塔を見た[16]。もともと川の中の石の上にあったというが、河川の改修で岸に移ったらしい。前方に大堰堤が現れると車道は大高巻きで越え、そのまま川の10mほど上の植林中を進んだ。昭和三十七年の空中写真では[28]、現在の車道と同じ位置に道があり、現在植林になっている道の川側は畑地になっている。さらに急流で水害の恐れがある御岳沢近くに参道を付ける可能性は低いと思われるので、古くから道の位置は、堰堤高捲き箇所以外は現在の車道と同じだったと推測される。十分ほど歩いて右岸に渡り返したところが車道終点で、対岸は御岳町の水道施設である。車道の左側、御岳沢の右岸に入る小窪の出合近くのヤブやゴミに紛れて、損壊した幾つもの墓石があった。寛延四年(1752)、享和元年(1801)などの文字が辛うじて読み取れた。いずれも金峰参詣で御岳が賑わっていた頃のものである。中では新しい方の墓石には、文久元年(1862)、明治十三年と刻まれ、「先祖代々神霊」とあるので、遠方に越したか絶家した住人のものであろう。
 ここから暫くは、古道がよく残った区間である。入口に、「この先、危険箇所多数の為一般の通行を禁止します。」と甲府市道路河川課の割と新しい看板とバリケードがあった。この看板はある意味紛らわしく、この先江戸時代以前からの古道と後に拓かれた古い市道とが並走する部分があり、危険箇所が生じた古い市道の通行を一般市民が通行しないよう管理者である甲府市が禁じているということと思われた。かつて馬背で荷を運んだという古道は牛馬道仕様(約1.8m幅)で歩きやすく、深い落葉を蹴るように分けながらどんどん進んだ。並走する電柱は、この奥の小屋への電力供給用のものらしい。
 百米強を進んだ辺りで、そのまま御岳沢の右岸高みを直進する甲府市道らしき山道と、折返して高度を上げる道との分岐が現れた。どちらも、山仕事などで僅かに歩かれる程度に見えたが、幅があり道型が確りした折返し登る道の方が古道である。文献にある瀧尾坂と呼ばれる峠越えがこの登りに当たり、比較的新しいものでは、昭和四十年に山村民俗の会の舞田一夫が越えた記録がある[18]。明治期に通った高野鷹蔵は地元の案内人に「滝ノ尾坂」と聞いたが[5]、一方高畑は国志が「滝尾坂」と記すのを承知の上ここをブナ坂と呼んだので[20]、当時の地元ではその呼び方があったのかも知れない。滝尾とは滝の辺りに落ちる尾根という意味であり、古道は急流となる御岳沢の滝場を避け、そこを態々大きく高捲いていた。倒木や落石で多少荒れ気味だったが、広く明瞭な道がヒノキ植林に続いた。かつて柵があったらしい木杭跡を見て、大きな九十九折れで高度を上げると、明るい雑木林になった。相当年季が入った補強材を渡ると、峠の頂上、瀧尾坂上である。このさき北側が全て植林であるのに対し、南は明るく開けていた。道の左にある大きな石祠が、国志に言う瀧尾ノ社のようだ。原全教が「四の鳥居の礎石」とした石は、ただの石のようも見えたが、見方によってはそう見えるのかも知れない。
 植林を少し下ると、古道らしく石垣で普請した所があったが、崩れた土砂で少し細くなっていた。道の左側に置かれた粗末な墓石か小石碑に、明和、安永のような文字が辛うじて読み取れた。それぞれ一七六四〜一七七二、一七七二〜一七八一年と、二百数十年前のものである。緩い下りを進むと、沢沿いに登ってきた植林中の微かな踏跡を右から合わせ、すぐに小沢に掛かる山中に不似合いな鋼製の橋梁を渡った。この辺りが高芝で、昭和初期頃まで一軒の家があったところだ[7]。左から合する江草口の古道[1]は、微かに山道の気配を感じるほどでしかなかった。

@三百年以上経つ御岳沢の三界萬霊塔

A植林地を車道化された道で登る

B水道施設付近右岸支沢の荒れた墓所

C御岳町の水道施設から漸く山道になる

D 市道の危険箇所を知らせる表示

E登山道と化した市道に電柱が沿う

F市道と分かれた古道は滝尾坂を登る

Gかつて四ノ鳥居があった滝尾ノ社

H山中で見た江戸中期の墓石

I高芝で市道を合わせ小沢を渡る

 ここでいったん歩みを止めて、御岳沢沿いの甲府市道らしき山道について触れておきたい。水道施設がある車道終点を過ぎてすぐの分岐を沢沿いに行くのが、高芝の橋の直前で合流した道である。市の立看板にある「危険」表示は一般市民やハイカー向けのもので、確かにどなたにでもお勧めできるものではない。熟達した登山者であれば登山路として十分通行できる程度の道である。沢沿いのこの道ができた時期や経緯は不明だが、大変な労力を掛け岩壁を穿って作られた人工的な短絡路である。黒平まで車道がなかった頃、瀧尾坂を登らずとも沢沿いに通れる歩道として拓かれた道のようだ。黒平の藤原一郎氏のお話では、既に子供の頃にはあった道で、人は沢沿いの短絡路を、荷を積んだ馬は旧来の瀧尾坂を通っていたという。氏は昭和三十年代後半まで使われていたとしているので、三十八年の野猿谷林道開通までは断崖を通るこの道が使われていたようだ。以前から開通していた御岳林道は遠回りなので、案内記事もこの道を勧めていた[29]。昭和四年に御岳から猫坂を登った原全教は、瀧尾坂の道のみを解説しており[7,30]、それ以前の記録にも出てこないことから、昭和の初期に掘削されたものかも知れない。険しい沢の右岸高みの植林を登る歩道は、初めは古道より歩きやすく、登山道としては十分歩けるレベルだった。左の暗い植林中に墓石が見えた。倒れているものを含め四基あり、薄くなった文字に目を凝らすと、寛政九(1797)、文化七(1810)、天保六(1935)などと読み取れた。高度を上げる道の右下に、遠目に見て七、八米ほどの不動滝が姿を表した。滝の足元には剣と小祠があり、右岸斜面に建物があった。原全教の聞書きや藤原氏の話によれば、籠堂ではないかとのことだ。至近にある先の墓石との関係は分からない。この歩道に沿う電柱はその建物へ続いていたが、そこへ行く道は別に沢沿いについているらしかった。歩道は崖のような沢の右岸高くを、トラバースしながら少しずつ高度を上げた。小窪を鋼製の橋で渡ると、左上へ登る小道が分かれた。左側の木に、真っ茶色に錆びて殆んど読めない登山者用の道標が打ち付けられていた。落葉で滑りやすい崖の道を足元に注意しながら歩いていたので、三上浩文氏の指摘がなければ気づかなかっただろう[31]。一時的に下ったりして難所を避けながら、切り立った岩壁を掘削した険しい道は、うっかりすると転落の恐れがあり、誰にでも通行をお勧めできるものではなかった。歩道はさらに高度を上げたが、次の滝を過ぎると一気に高度を上げた御岳沢に追いつかれ、鼻を回ってすぐ木橋で左岸に渡った。橋は腐敗して使えないため甲府市のバリケードが置かれていたが、もはや小沢となった御岳沢を容易に渡渉した。植林に入り、すぐ二連の鋼製の橋で右岸に渡り返すと、道型が消えた。よく見ると道が流された形跡があったので、沢の増水や植林で消えてしまったのだろう。ほぼ平坦な暗い植林地を、朧気な道の痕跡を繋ぎながら進んだ。古い赤テープに交じり新しいピンクテープも有り、古道の瀧尾坂よりこの近道の方が使われているようだ。植林中で瀧尾坂から下ってきた古道がいつの間にか曖昧に合流すると、そのすぐ先が、高芝の鋼製の橋である。


@左の植林中に四基の墓石がある

A 不動滝と籠堂らしき建物を下に見て

Bルンゼ状に渡した鋼橋

C登山者が通った頃の錆びた道標

D 岩壁を穿った険路は落葉で滑り危険

E下りではなお滑りやすい

F御岳沢の滝を遥かに高捲く

G沢の緩い部分を渡る落ちた木橋

H登山者なら容易に渡渉できる

I二連橋で右岸に渡り返す
J道型は流され消えている

K植林の痕跡を登り高芝で正道に合流



 車道付近でやや曖昧になった古道は、倒木や伸びてきた灌木で荒れていたが、支沢の右岸に確実に続いていた。時々見るピンクテープは、古道と似て非なるルートに付いていたので、営林作業や登山などの目的で猫坂を登るためにつけられた目印のようだ。実際、荒れた古道を歩くより、ピンクテープ沿いに植林地を縫って登る方が歩きやすく、かつ早いだろう。車道から約130mの辺りで、沢の増水時に削られたためか道が完全に消えていた。すぐ回復した道型はその約50m先で、水涸れした沢の左岸に渡る。渡沢部の荒廃が酷いので、一見そこから沢筋を辿るように見えてしまう。作業時の廃物が散らばる酷く荒廃した伐採跡地を、辛うじて残る道型を判別しながら通過した。植林中の平板な斜面の登りなので、やや抉れた古道の道型が降水時の水路になっているらしく、今歩いている場所が古道なのか水流跡なのか迷う状態だった。水流跡なら直線的に落ちるはずなので、途切れず規則的に蛇行して登るその溝が古道であることは疑いないものの、時々現れる明らかな道型を見るたび安心した。枯枝や落葉が詰まって歩き難いこと極まりなかった。それがピンクテープの新経路が歩かれる理由であろう。前方が覆い被さる壁のようになる1100m米付近で、本当の涸窪と古道が幾度か連続して交差する箇所があり、実に紛らわしかった。古道は壁状地形に右にトラバースしながら取り付き、倒木混じりだが明瞭な道型で三度の折返しを入れて急登した。古来、「根子坂」と呼ばれた猫坂は全般にダラダラの登りだが、このような木の根を掴みたくなるような急斜面に因んだ名であるのかも知れない。やがて傾斜が緩くなり猫坂の上に立った。峠状のこの地は相変わらず暗黒の植林内だったが、意外と広々としていた。左には甲斐国志に記された立派な根子坂ノ社の石祠が、右には造林記念碑と山火防止の看板があった。五ノ鳥居の沓石もそのまま残っていた。石祠は再建されたためか部分的に新調されており、一帯は植林や伐木の人工的空間になり、すぐ下には車道が通るこの場所は、今や風情のかけらもない場所になっていた。

【時間記録】  金桜神社下三ノ鳥居-(10分)-車道終点の水道施設-(20分)-高芝-(10分)-猫坂林道横断-(25分)-根子坂(猫坂)上 [2020.12.6]



@植林を緩く登る良道

A 前方を横切る猫坂林道の擁壁

B林道先の植林地で荒廃が強まる

C小窪を渡る部分で完全に消える古道

D 間伐木や枝打ちが溜まって歩き難い

E植林中の水流跡に見えるほど荒廃

F本物の小窪が交差すると区別不能に

G山腹の急登で道型が何とか見え出す

H猫坂の頂上が見えてきた

I植林中で見る新し目の根子坂ノ社

J五ノ鳥居の沓石も健在だ



5 根子坂(猫坂)〜下黒平

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