AGC AGC 山岳地理レポート REPORT-02-2-1 金峰山表参道の古道を辿る −できるだけ正確に歩いた− 富永 滋
第二部 通行記録 1 吉沢一ノ鳥居跡〜太刀抜岩分岐(上道経由) 1 吉沢一ノ鳥居跡〜太刀抜岩分岐(上道経由)
発掘された一ノ鳥居は現在、至近の公有地である敷島総合公園に移設されているが、一ノ鳥居の本来の位置である、甲斐市吉沢(キッサワ)地内の田んぼを出発点とした。鳥居跡には基石が残されているとのことだが[16]、付近には石が多数あり認識できなかった。古は荒川の御霊ノ渡しを渡ってきたであろう、付近の民家から来る田んぼの畦道(舗装道)は、すぐ吉沢へ至る荒川右岸車道にT字路で突き当たっていた。目前はヤブに覆われた荒川の段丘崖である。古道は、直登するにはきついこの斜面を斜めに登っていたと見られる。茨に気をつけてヤブに入ると、左上に登る微妙に踏まれた部分があった。笹や灌木を分けてそれを約百米も進むと、一ノ鳥居のあった田んぼのレベルから20mほど上の段丘の端に乗った。段丘上は耕地になのだが、登り着いたその畑地は、目前に建設中の広域農道に遮断され耕作放棄状態だった。折り返すよう右折して上がると、すぐに御霊若宮の小祠があった。明確な道型が残っていないこの区間、古道の道筋についての確実な根拠は得られなかったが、上り下りと一往復して地形や植生をよく観察した結果、このルートが一番もっともらしいと感じられた。途中で見た踏まれた痕跡が鎌倉時代の古道の残骸であるはずはないが、一ノ鳥居から御霊若宮付近にかけては、全て吉沢地区の耕地である。車道ができる前は、崖の上下の耕作地間の移動にその踏跡を使っていたのかも知れない。御霊若宮は金峰詣でが盛んだった頃は立派なお宮だったといい、現在は明治十年の小祠と欠けた狼の石像など数点の遺物だけが道端にひっそり置かれている[16]。付近は広域農道の建設ですっかり変わってしまったが、古い写真に写った風景から現在とほぼ同じ位置にあったと思われる。測ったようにきれいに道路脇に設置されていることや、写真とは微妙に配置が違っていたりするので、道路建設時に多少移動されたのかも知れない。
ここから約百米の間、古道は尾根上に建設された広域農道に潰されてしまったと見られ、それを辿った。左から別の車道が合流すると広域農道は尾根を外れて吉沢へと下り出す。見晴らしの良いその場所には「御領の棚田」の解説板があり、観光地として売り込み中のようだ。すぐ左で分かれて尾根を登る農道のような未舗装車道に入ると、すぐに鹿柵があった。それを抜けると未舗装車道は亀沢側へ去っていった。ここからいよいよ古道らしい部分が始まった。古道はピークを捲きつつ常に尾根上に付けられている。緩やかな広葉樹の尾根に、意外と立派なよい歩道が続いていた。道は手入れが良く、ピンクテープが点々と付いていて、予想していたうらぶれた古道とは逆に、麓の村々が下に見えてきて楽しいハイキング気分であった。しばらく歩いて気づいたのだが、かなり周到に倒木除去やピンクテーブの手入れがされていたので、地元の甲斐市などが、ハイキングコースとして紹介すべく整備を進めている最中だった可能性がある。KDDIの電波中継所を見ると、石垣で整地した畑地の跡が目につくようになった。古い地形図では、至るところで麓から尾根上まで畑地になっている。車社会になる前は、緩やかな丘のような地形のこの付近では、日当たりの良い尾根上が格好の耕作地だったのだろう。亀沢川沿いの久保からの廃車道が、左後ろから上がってきて横切った。その車道はしばらく、尾根の右側を絡んで登っていたので、それほど遠くない昔に、その車道で行き来しながら尾根上で農作業が行われていたのだろう。その廃車道は再び尾根に乗り、そこで終わっていた。尾根上は多数の倒木で埋まっていたが、全て片付けられ歩きやすかった。578独標の平頂で急に直角に右折したが、テープの誘導が多く迷うことはなかった。植林が現れたり、また畑地跡になったり、自然林の場所もあった。尾根に起伏が出てくると、古道は明らかにそれを避けて捲くようになった。ピンクテープの整備した踏跡は、必ずしも古道の道型を意識せず歩きやすい部分を拓いてあったので、敢えて古道を通ろうとするとヤブや倒木をかき分ける必要があるときもあった。久保から別の廃車道が上がってきて、尾根上を少し南下していた。付近の畑地跡は恐らくこの道を使って手入れされていたのだろう。
地形図の金屋四等三角点は、地形的に際立った特徴がないヤブと倒木に覆われた小ピークで、辺りを軽く探ったが三角点は見つけられなかった。右がヒノキ植林のところで、古道はピークの右を捲いた。山の様子は、畑地の多い緩やかな地形から、植林が多い多少凹凸のある地形に変わり、古道は殆どのピークを捲くようになった。次に道が稜線の左に出る中途半端な地点で、突然道の整備が停止した。地形的にも森林管理的にも特徴のない点で整備停止となっていたのは、作業がまだ進行中のためであろうか。いくら正確に古道を歩くといえ、あまりにも倒木が酷くアスレチックのような状況になる箇所では、遠慮なくその部分を避けて通った。永く歩かれた古道は周囲より凹んでいるため、落葉が溜まって歩き難かった。単に早く楽に行くなら古道の道型を無視して適当に尾根を行くのが良いが、今回はあえて正確に古道を歩いた。小さな凹凸を幾度も繰り返す稜線を右へ左へと捲いて進むうち、やや大きな732独標が現れ、古道はその直前で右のヒノキ植林に沿って捲くようだった。植林による道型の破壊によるものか、かなり細く不明瞭になった。そしてそこから地籍調査のピンクテープが付くようになった。右が恩賜(オンシ)林で、境界杭が頻繁に打たれていた。恩賜林は明治四十四年の設立である。尾根や谷に沿わない捲道が恩賜林界であるということは、少なくとも明治四十四年の境界確定時にここに道があったことを意味する。人里離れた山中では江戸から明治にかけてほぼ変化がなかったはずであり、よって恩賜林界が古道の道筋である可能性が高く、その場合は境界標たる赤杭を追えば良いことになる。トラバース箇所は上から崩れてきた土砂のため道型が消えていることがままあるので、古道の有力な手がかりになる。捲き終わって尾根に戻ったところで境界杭が消えたのは、恩賜林の区域が後退し、この道が境界でなくなったためである。
右前方から車道上がってきて、路上に古い車が廃棄してあり、側には二棟の廃屋が見えた。そこを通り過ぎる辺りに表示板があり、獅子平からのハイキングコースである旧敷島町(現甲斐市)自然観察路があいまいに合流した。ここから少しの間、一般コースになるので急に道が良くなった。一時両側が恩賜林になるも、尾根の右捲き部分では恩賜林は右側だけになった。石垣や錆びた一斗缶は、開拓集落の名残であろう。尾根の左を捲くようになっても恩賜林の境界杭は道に沿っていた。
獅子平道を合わせて数百米も行くと小さなガレに突き当たり、そこを急に下る一般コースと分かれ、古道はガレを上巻きし、直進して緩く登リ出した。荒れ具合からすると廃道状態だが、廃道としては歩きやすかった。恩賜林の境界標が点在しているので道を失うことはなかった。しかし次第に道型が薄くなり、ついに右上から流入する土砂で消えてしまったので、伐採で荒れた窪の左岸山腹を見当をつけてトラバース気味に登った。稀に見る境界の赤杭も、間隔が長いので十分頼りになるとは言い難かった。荒れた緩斜面をデタラメに行く分には簡単だが、古道を外さないよう神経を集中して歩いた。前方に、下道に出合うはずの峠状地形が見えてくると、それを目標に登った。右から合流するのは、外道ノ原から迂回してすぐそこまで登っている車道から来る作業道で、現在は廃道に近いが、昭和六十二年にはこの道が外道のハイキングコースとして使われていたという[16]。そのすぐ先の峠状地点が、道標が賑やかに立ち並ぶ太刀抜岩の分岐で、向こうから登ってきた外道を合わせた。ここは獅子平、長潭橋・下道、太刀抜岩、パノラマ台・弥三郎岳への四辻を成しているが、一般登山道以外の道を含めると、さらに吉沢・上道、稜線の御岳旧道、外道ノ原からの作業道の三本が合わさる、七辻である。
【時間記録】 一ノ鳥居跡-(10分)-御領棚田-(1時間10分)-獅子平分岐-(上道経由20分)-太刀抜岩分岐 [2020.12.6]
@敷島総合公園に保存中の一ノ鳥居 A一ノ鳥居があった本来の位置 B御霊平へ段丘崖を登る微かな痕跡 C広域農道の縁を登るD広域農道脇の現在の御霊若宮 E鹿柵を抜けて上道に取り付く F古道脇で多く見る畑地跡の石積み G道の整備が進み片付づいた酷い倒木 H自然林の気持ち良いハイクI未整備区間で急に倒木が増えた J恩賜林の境界標に沿う箇所を通過 K北仙開拓の廃屋近くで見た廃車群 L獅子平からの自然観察路に合流 Mしばらく恩賜林界沿いの道となる N小崩壊で古道は自然観察路を離れる O境界杭頼みの非常に不明瞭な道に P自然観察路や下道に出合う829M七辻
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