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山岳地理レポート  

REPORT-02-2-5

金峰山表参道の古道を辿る

−できるだけ正確に歩いた−

               富永 滋


第二部   通行記録

5 根子坂(猫坂)〜下黒平

第一部 こちら

1 吉沢一ノ鳥居跡〜太刀抜岩分岐(上道経由)

2 吉沢桜橋〜太刀抜岩分岐(下道経由)

3 太刀抜岩分岐〜金桜神社下三ノ鳥居

4 金桜神社下三ノ鳥居〜根子坂(猫坂)上

5 根子坂(猫坂)〜下黒平

猫坂上の峠状は、かつて有名だった金峰山の眺めが失われてしまった植林地の広い緩斜面だった。高野が明治四十年に記した秋の紀行には、「(註:昇仙峡付近の紅葉は)黒平の紅葉には及ぶべくもあらず、根子坂から見渡す限り、目の及ぶ限り、黄に、紅に、樺に、其間を彩るは常盤木の緑、高山是れ錦とや云ふべけん」「右を見ても、左を見ても、後を返へり見ても、木は紅に、黄に、空は藍色に」と、この上ない紅葉の美しさについて筆を余す所なく記されている[5]。支尾根の右に沿って北斜面を緩く下ると、約百米で植林を抜けて、左に折れながら急に下り始めた。下り出しで右から合わせる薄い植林用の踏跡は、右下を通る御岳林道から来るものだ。道の左側の足元に、三上氏の報告通り[31]、頭の欠けた3〜40センチ程度の小さな馬頭観音が置かれていた。折り返しながら、灌木とヤブに覆われ礫が転がる雑木林の悪路を下った。偶に見る赤い小杭でここが道であると確認された。40mほど下で御岳林道を横断した。古道は法面に削られ消滅していたので、転げ落ちるようにその崖を下った。いったん古道を離れれば、下りやすい箇所を探してより安全に車道に降りることも可能だ。

 車道の下に続く道型は、車道建設で激しく傷んでいるうえ、ヤブや廃棄されたゴミで分かり難い状態だった。古道は涸沢沿いに下るようになり、道を示す赤杭は続いたが、道型は消えてしまった。豪雨時の濁流に押し流されてしまったようだ。地形的には涸沢の左岸に道があったと思われたが、ゴミと土砂に埋もれて明らかな痕跡は認められなかった。右岸斜面に何かの敷地だったと思われる石積みを見て下ると、1042m二股で左岸に移る雰囲気があるも、道の雰囲気はいっそう曖昧になった。なるほど直下に堰堤があり、しかも左岸が岩壁になっていた。この状況では堰堤を右捲きで下るしかないため、道が一旦途切れていたのである。昭和三十七年の空中写真を見れば、二股付近で道が左岸に移っていることが確認できる[28]。堰堤下で、左岸に微かな道の痕跡を見ると、赤杭とピンクテープが現れた。しかし道路やその水抜工施工に伴う斜面崩壊も有り、本来の道型はほぼ破壊されていた。別の堰堤が現れ、左上を通過した。植林地に入り、間伐木とヤブの中のあるかなしかの作業踏跡を下った。本来道があったかも知れない部分も植林されていて、古道を感じさせる道型は残っていなかった。涸沢が微流になる頃、月見沢の本沢との合流が目前に迫った。少し道型的な雰囲気を感じると、道は下ってきた支沢の右岸へ渡った。ヤブの中に損壊した橋台の石積みがあり、橋の残骸か分からぬが丸太が二本引っかかっていた。右岸に渡ると、植林作業用の車道跡が来ていたが、それとは別に、支沢沿いの茨混じりの荒地にうっすらと古道の痕跡が続いていた。道は4〜50m先でV字型に折り返して下り、月見沢右岸の崖上で急に右折し、橋を架けて左岸の燕岩直下に渡る形跡が見られた。昭和四十年に舞田が渡った木橋[18]は跡形もなく、右岸側の橋台の一部だけが残っていた。左岸側は沢に沿う新しい車道の擁壁のため、橋台はもちろん、古道自体も車道の下敷きになってしまったらしかった。適当な場所から月見沢に下り左岸に渡渉したが、目前のコンクリートの擁壁を登ることができず、約百米下流でようやく車道に上がれる場所を見つけた。燕岩の所で沢を渡る本来の古道を歩いていれば見れたはずの燕岩は、車道を少し上がって見てきた。鱗状に岩に切れ込みが入った、つまり複数の方向に柱状節理が走った岩壁で、黒平付近ではよく見られるものだが、これだけ規模が大きいものは珍しい。なお燕岩付近の古道の痕跡は、初版地形図の道と一致し、荷車が通行できるよう大きな橋台を作って橋を架けたものであることから、古道と行っても近代のものと考えられる。

 車道に上がった地点から数十米ほど行った辺りは、一ツ屋、一軒家などと呼ばれる廃村である。文字通り一世帯のみが暮らしていた場所で、昭和四十年の舞田の訪問時にはまだ家屋があったというが[18]、今や斜面に拓いた畑地や作業道の跡が残るだけである。そのため確りした道型が随所に残っていたが、それらは全て荒川支流の崖に阻まれて行き止まっていて、黒平へと続く道は地形的に現在の車道の位置にしか拓き得ないので、古道は現在の車道の位置にあったと思われた。それは空中写真でも確認された[28]。黒平へ向かう車道は、続けざまに二つの小尾根を回るが、いずれも小尾根の先端をきっちり回らず、切通で短絡していた。二箇所ともそこを丹念に回っていた古道の痕跡が残っていた。しかし一世代前の車道時代のガードレールが残っていたりして、必ずしも古道らしい雰囲気ではなかった。二つ目の小尾根を回った後、古道は大平川を下って渡り登り返すのだが、車道下の高さ数米の擁壁のため、残念なことにシュリンゲかロープを使わないと古道へ降りられなくなっていた。このポイントは、道具を使って降りるか、擁壁下へ下れる場所を探して回り込むかしかなく、一般にはおすすめできない。擁壁下から急斜面の比較的明瞭な道型が川へと斜めに下っていた。渡河点付近の古道は両岸とも不明瞭だが、堰堤上で川を渡ると、古道は右岸と対称形の坂道で左岸を斜めに登っていた。川を渡った所の二体の石像は、無縁仏だと聞いた。道は一度折り返して九八六米の峠状で支尾根を越えて高屋沢に入り、すぐに渡った。直上のフェンスで囲われた敷地はマウントピア黒平の駐車場である。古道は高屋沢の左岸を行くらしかったが、左上の車道造成と植林とで道型は一部を除いて消滅しており、植林地を適当に進み、寒沢川の手前でマウントピア黒平入口を通ってくる現在の車道(御岳林道)に上がった。寒沢川を白雲橋で渡ると、昇仙峡から来る野猿谷林道にT字路で突き当たった。

【時間記録】 根子坂(猫坂)上-(10分)-御岳林道横断-(20分)-燕岩-(15分)-大平川右岸で御岳林道から離れる[ここまで2020.12.6]-(10分)-下黒平白雲橋 [ここまで2020.12.20]
※大平川右岸で御岳林道から離れる地点は、車道擁壁のため車道と古道との移行困難。



@植林を抜けた所の馬頭観音

A雑木林の下りは辛うじて道が分かる

B崖のような法面を御岳林道へ降りる

C林道下の今にも消えそうな古道

D堰堤を右捲きで下る

E左岸に痕跡を見るもほぼ道型なし

F次の堰堤や護岸など人工物が続く

G 植林中の作業道的な痕跡を下る

H橋台の残骸で右岸に渡ると知れる

I燕岩下で左岸に渡り返す橋台の残骸

J左岸から見ると一応の形が残っている

K現車道合流点の上方にある燕岩

L一ツ屋の廃墟

M現車道の切通しを大回りする古道

N次の切通しの大回り部分

O車道擁壁下の古道へは移行困難

P大平川へ下る

Q左岸に渡ってすぐの無縁仏

R小さな乗越を高屋沢へ越して渡る

Sマウントピア黒平下は車道造成で消滅

( 21)白雲橋右岸の古道の残骸




6 下黒平白雲橋〜龍ノ平

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