AGC AGC 山岳地理レポート REPORT-02-2-3 金峰山表参道の古道を辿る −できるだけ正確に歩いた− 富永 滋
第二部 通行記録 3 太刀抜岩分岐〜金桜神社下三ノ鳥居 1 吉沢一ノ鳥居跡〜太刀抜岩分岐(上道経由)
3 太刀抜岩分岐〜金桜神社下三ノ鳥居
獅子平から来てパノラマ台へ水平に向かう自然観察路に入らず、引き続き古道を進んだ。道の区分としては廃道であろうが、約1m(三、四尺)という道幅は江戸時代に通行した渋江が報じたものと変わらず[15]、熟練した登山者であれば十分通行できるものであった。平坦で不明瞭な尾根上の地形のため古道は一時不明瞭になるが、まず少し尾根を辿り、次に尾根の左を緩い窪状で回り込み、西へ出る支尾根を越えたらトラバース気味に尾根に戻って乗越し、一段上の峠状(853m)に出た。この間、一部だが明らかな道型が残っていた。この辺りの旧道は数十年前まで使われていたらしく、廃道としては歩きやすかった。そこから溝状の古道は尾根に絡んで登るが、落葉や石が溜まって相当歩きにくく、ただ通るだけなら右の植林地を折り返し登るサブルートの方が楽で歩きやすい状態だった。872mで両者が合流、その先の929m峰の南を捲きながら次第に高度を上げた。荒れていても道型は明瞭で、時々恩賜林界を横切る地点では境界杭を見た。910mまで高度を上げると、弥三郎岳直前まで道はほぼ水平になった。尾根を乗越して左に移る地点は、尾根上の倒木で曖昧になっていた。やや下り気味に小尾根二つを捲きながらトラバースすると、次の窪状ですぐ下を並走する自然観察路が目に入った。急な山腹を行く古道は土砂に埋もれて少しずつ不明になって消えてしまい、数米下の自然観察路に移ることを余儀なくされた。この辺りが自然観察路との合流点だが、明確な一地点ではないため、八王子峠から逆コースを下ってきた場合は、厳密に地形図を読んで分岐を判断することになろう。
古道と合流した自然観察路は流れ込んだ土砂で細くなっていたが、窪状地形を通過するとすぐ古道らしい、やや抉れた落ち着いた道になった。ここから暫くは、古道と自然観察路との重複区間である。俄然歩きやすくなったトラバース道を水平に飛ばすと、尾根に乗る直前の道標で白砂山への道を分けた。直後に尾根に乗った所に萬霊塔の破片があり、鞍掛岩が遠望された。旧羅漢寺への分岐である。文化六年(1809)に通った渋江によると、萬霊塔から寺へ向かうと寺門があったという。寺には数人の僧がいたと云い、その一人に奇岩や架橋が連なる山内を案内させた。社記・寺記によると、慶安四年(1651)の火事で全焼したがその後再建され、幕府御役所からの高札を得たともしており、慶應四年(1868)に社記・寺記編集用の報告を上げている[24]。文化十一年(1814)編纂の国志もまた、寺が山中にあり、近隣三十村を托鉢に回っているとしている[25]。このように羅漢寺は少なくとも江戸末期近くまで確かに存続したとの記録があり、大正九年に昇仙峡の現在の位置に移されたとされる[16]。昭和初期に原全教が見たときには、現存の位置に亜鉛引鉄板葺の粗末なお堂と納屋があったというので[7]、その時点では実質的に廃寺であったのだろう。ウィキペディアの「慶安4年(1651年)3月の火災で焼失して廃寺(羅漢寺廃寺)となり現在地に移転したと考えられている」の記述は間違いで、十九世紀の諸文献を無視した誤った考えに基づいているようだ。八王子峠に向かって、御岳までで随一の100m近い登りとなった。道の整備はよく、九十九折れを入れて歩きやすかった。パノラマ台駅(ロープウェイ頂上)下を斜めに登り、八王子権現(八雲神社)の石段下に出た。今は裏参道のように見えるが、渋江が歩いたときはここが正面だったことが著書の挿絵で分かる[15]。吉沢・猪狩界の乗越しでもあるこの地点は金桜神社までの最高点でもあるので、ここが八王子峠と思われる。休日は観光客で賑やかな場所である。人工的に整地し拡張された山頂に新しい社殿が立つが、昔は石段上に見える鳥居の左側にあった。拝殿裏の大きな石祠は、多少移動したかもしれないが昔のままに違いない。現在の表参道右側には、付近から移設された宝暦十三年(1763)の道標があり、「左是よりみたけ社参道」と記してある。では右の道は何かといえば、八王子権現は麓の猪狩村の氏神であるため猪狩への道も古くからあり、恐らく道標はその分岐点に立っていたものと思われる。
八王子峠の八雲神社へは御岳から車道が通じている。何度も訪れ歩いてみたが、特に八王子峠から御岳下沢右岸尾根の石祠の乗越までは、尾根上の緩やかな地形と、古道にほぼ重複する経路で拓かれた車道建設とにより、古道と断言できるほどの明確な道型は認められなかった。
道であったかも知れない部分的な痕跡や、地形的に道があったと推測される箇所など、根拠の弱い推定を基に古道として歩いた部分も少なくなかった。明治四十三年測図の地形は[26]、地形の歪みや間違いがあっても踏査が確りしていたためであろうか、道の描写は正確であり、歩く際の参考になった。八雲神社先の下福沢分岐から、山腹を強く削って拓かれた車道に対し、古道は掘削する必要がない尾根筋近くの緩やかな部分を通過していたと推測された。
地形的に古道と推測される部分は、緩やかで大変歩きやすいものの、一部の植林作業道らしきを除いては、明らかな道型は残っていなかった。付近は植林地が多く、幾つもの作業用の歩道や車道が設置され、古道の判別を一層困難にしていた。車道が極小の突起を左右に捲きながらほぼ尾根上を行く部分は、古道を潰して車道が敷かれたとも想像され、やむを得ずそのまま車道を辿った。一帯で随一のピークである1019m小峰(地形図では1030m圏)を車道を使って西から捲くと、前方が開けて右に緩い谷が広がり、右に古道らしい痕跡が分かれていた。この地点の右側の道路脇に、古い沓石が放置されていた。鳥獣保護区の看板があり、車道が左に曲がった後すぐ右に曲がる部分である。目測三十数センチ四方の石に約八センチ四方の穴が開いていた。江戸時代の神領南限に近い位置と考えられる位置で見たこの古い遺物は、江戸後期の新たな一ノ鳥居の沓石である可能性が考えられる。試しに右へ分かれる古道を辿ってみると、御岳沢の方向へとどんどん下っていた。また、下らずに尾根を右に絡んで捲くような形跡もあったが、途中で荒廃し、道の気配はほぼ消えてしまった。だが構わず捲き進むと、尾根の芯に戻った辺りの森林中で墓標を見た。沓石様の遺物から約200mの位置である。文字は長年風雨に晒され掠れて読めなかったが、二引両紋が見て取れた。この家紋は多くの武家に採用されたため、家系を特定することはできない。ちなみにウィキペディアではこの紋を小田切の家紋とするが、その記事の著者が引いた原著で分かるように[27]、小田切の代表的な家紋とは考えられない。ただ小田切は、地元の甲斐市でよくある姓であり、御岳衆にも見られるものであるから、一概に否定はできず、小田切のものであるかも知れない。
一方沓石様の遺物から明治期の地形図どおり尾根の左を捲いて来ると、この墓石のやや下を左捲きで通過する。そしてすぐ、車道はほんの一瞬尾根に乗る。沓石様の遺物からここまで、旧版地形図は尾根を左捲き、古道の断片的な道型では右捲きとなるが、どちらが実際のこどうであるかは分からなかった。
また尾根に乗った地点は、現在の甲府市御岳町の南限である。先の沓石様の遺物が、江戸時代に神域の南限に建っていた一ノ鳥居のものとすると、辻褄が合うという根拠である。複雑な地形のこの尾根で、200mばかりのズレが発生しても不思議ではない。
御岳町界から、車道は再び尾根左の山腹をぐんぐん下ってやがて舗装道になるが、明治期の地形図が示す古道は尾根上かむしろ東側を進んでいる。実際に尾根上の古道があったと思われる辺りを歩くと、古道として申し分ない地形であったが、緩やかな尾根上もしくは東側のやや荒れた森には、多少踏まれた感はあれども明確な道の痕跡は残っていなかった。原全教が二ノ鳥居の沓石を見たとするのはこの辺りと思われるが[17]、二、三度歩いた程度では見つけられなかった。尾根は930m付近の小さい平らな場所から、谷に向かって急に下り出していた。車道が舗装道になる地点のすぐ脇である。現在は灌木で展望が利かないが、江戸時代に渋江長伯が描いた二ノ鳥居付近の少し下から見た御岳の町の風景を見ると、水墨画のように強調された地形を割り引いてみれば、八王子坂を下る参道の様子からこの辺で描かれたと推測される[15]。渋江が記した九十九折の坂に該当する急な場所は他にないので、この標高差20mばかりの崖状の部分がそれであろうか。今ある車道東側の窪状地形の部分であり、ヤブの中の滑りやすい地形に道型的な雰囲気が見られた。周辺の斜面には他に歩かれた痕跡もなかったことから、古道はここを下っていたと思われる。今も登り難いほどよく滑る斜面なので、長年のうちに古道はすっかり洗い流されてしまったのかも知れない。谷は伐採跡の緩い灌木の斜面となった。作業道の痕跡らしきが多数あり古道と断じる根拠を見つけられず、古道だったかも知れない作業道の残骸を繋いで、緩く斜めに下った。やがて左上から下ってきた舗装車道に自然と吸収され、車道を少し下ると、そこが御岳下沢への乗越であった。山側の擁壁が途切れて左の支尾根を乗越せる地点なのですぐに分かった。原全教が「切通」とした所であろう[17]。ちょうど切り通した部分に非常に古い数段の小さな石段があり、祠が祀られていた。
古道がここで支尾根を越えて御岳へと下るのは、旧版地形図の通りである。一瞬山側へ下るとすぐ折り返して斜めに急下、だが回り込んで来た車道に呑まれて古道は消えてしまった。しかしその十数米先で、再び反対方向に向かう古道が車道から分かれたので、ちょうど折り返す部分が車道の下敷きになったようだ。ヤブっぽい荒れた道を下ると、最後は御岳霊園の造成により切り崩され、霊園内の作業道になり、折り返して再度車道に合流した。ここからは御岳集落内に入るので古道を探すことは困難である。車道を下って御岳下沢の橋を渡ると人家が見えてきた。昇仙峡から来る県道に出合う直前、一直線に並ぶ村の家屋の奥に聳える金桜神社を見通す場所があり、御嶽千軒と言われた江戸時代の賑わいが忍ばれた。しかし明治五年の修験禁止令で、金峰山と金桜神社は大きな打撃を受けたことは間違いなかろう。明治期には参拝者や観光客相手に細々と営業する僅か数軒の宿を残すだけになったという。明治末期の写真には、門前町の入口に当たるこの場所に立つ栄華を伝える古い鳥居が写っている(図3)。観光客の車に追い越されながら広い県道を緩く登った金桜神社入口に、堂々たる大鳥居があった。門前町の終わりに高さ十米余りの三ノ鳥居があったというので、恐らく真新しいこの鳥居がそれに相当するものであろう。神社は266段の石段を上がった上にあるが、見ているとこれを登る参拝客は稀で、社殿脇まで車で乗り付ける人が多いようだった。
【時間記録】 太刀抜岩分岐-(20分)-自然観察路合流-(15分)-八雲神社-(50分)-小祠の切通-(5分)-御岳霊園-(7分)-金桜神社下三ノ鳥居 [2020.12.6, 2021.12.20, 2021.2.23]
@尾根に絡んで登る古道 A数十年分の荒廃でも道型は分かる B境界標を見て尾根の左に移る C捲いてきた自然観察路と合流して進む D倒れた萬霊塔のある羅漢寺入口 E八雲神社下で八王子峠を越す F神社内に移設保存された古道標 G神社から車道化され古道が分かり難い H尾根上の古道と推測する部分 I平坦なため道型が見えず確証がない J新・一ノ鳥居の沓石と推測する遺物 K車道近くの森の中の古い墓石 L二引両紋は御岳衆のものか M八王子坂を急下するこれが道型か N伐採跡は作業道と古道が判別困難 O小祠の切通で古道に入る P意外と明瞭な道が御岳下沢へ下る Q御岳霊園の取付道で車道に合流 R金桜神社三ノ鳥居脇の道が金峰へと続く −次へ−
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