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都心の几号水準点探索

甲州街道に沿って―――
江戸城への尾根道と几号水準点探索

近藤善則

 山岳地理クラブの活動テーマの一つに、読図研修や、地図作成の基になる測量の歴史を学ぶという課題がある。2007年9月に第一回研修として都内の測量遺跡(几号水準点など)を訪ね歩き、都心の地形は意外なほど起伏に富んでいることを感じた方が多かった。また一等三角点や基線網の探索なども、関連したテーマのひとつで、かならずしも山岳地域とはかぎらない、広義な地域の探索を行ってきた。
 今回は日本橋から甲州街道に沿って、几号水準点(きごうすいじゅんてん)や江戸城付近の地形観察を、旧版地形図と現在の地形図を対比しながら歩くという、都心の探訪ウオーキングを実施。7月24日(木)集合地、日本橋三越本店ライオン像前に9名のメンバーが集った。

日本橋 三越前
 資料として、明治末期測量の仮製1万分1地形図「日本橋」「四谷」と現行の1万分1地形図「日本橋」「新宿」を使用し、新旧の地形を対比しながら、日本橋から、甲州街道沿いを中心に、第一の宿場、内藤新宿を目指した。梅雨明けしたばかりの猛暑の中、熱中症が心配されたが、各自それぞれ事前の対策は万全のスタートである。

三越・ライオン前


注:几号水準点については、AGCレポートvol-1のコラム、第1回読図研修は同vol-3をご覧ください

日本橋
 江戸時代に五街道が整備され、そのいずれもが日本橋を基点とするが、北に向かうのが中山道、日光街道、奥州道 南に向かうのが東海道と甲州道中。甲州道中は一丁目の交差点から西に曲がり永代通りを呉服橋から大手門方面に向かう。


    日本橋中央の道路基点標

外堀通りを右に曲がったところが一石橋。この橋の南詰西側に迷子石がある。「しらする方」と「たつぬる方」とが両側に刻まれており、江戸時代の迷子の告知板だそうだ。この石標の正面に「満よい子の志るへ」(迷い子のしるべ)とあり「へ」の下に几号「不」が鮮明に刻まれてある。              

迷子石の几号水準点 

次に永代通りをまっすぐ西に、山手線のガードを潜り大手町から皇居大手門に向かう

大手門
 内堀の橋を渡ったところが大手門。左側に警官の詰め所があり、右側の扉外側の石垣の下段に内向きに薄く几号が刻まれており、やや見つけにくい。監視の警官は「この連中はなにをしているのか・・」と怪訝そうに見ていた。北野氏のファイルに挟んでいた葉っぱに気付き、皇居内の植物は一切持出し禁止の旨、注意されていたが、結構細かいところまで目を光らせているのだなあと、納得 (北野氏は皇居の葉っぱではなく、自宅から持参した物だと釈明していた)
    

大手門 外門右側の几号


 次に内堀通りを南へ。東京駅正面からまっすぐ皇居に向かう凱旋通りのど真ん中を通り、日比谷通りを日比谷公園に向かう

日比谷公園
 公園に入ってすぐの心字池の中頃の畔に2mほどの亀の甲に似た平たい石がある。通称「亀石」の水平面に几号が刻まれてある。
几号は垂直に刻まれた「不」の水平の「一」が水準の高さを示すもので、垂直に刻まれることはない。これは牛込門枡形石垣にあったものを移設したものだとされており、40.26尺という記録が残されている。
 そのまま、日比谷通りと平行に公園内を進み、交番の裏の烏帽子石へ。草むらの中に几号を探し当てる。この石ももともと別の場所にあったものを移設したそうだが、こちらは垂直にもっともらしく刻まれてあった。後で調べたところ、この几号は 市ヶ谷門枡形石垣(62.65尺)であったそうだ。
 思った以上に時間の経過が早く、すでに昼時である。公園内の「松本楼」か「なんぶ亭」で食事!という声も挙がったが、結局は野外音楽堂横のグリーンサロンでの軽食となった。タイミングよく、我々の後に団体さんが押し寄せ満席でごった返していた。
 

ひと時の休息のあと、次に桜田門に向かう

桜田門
 桜田門の几号は、内門の内側石垣の地表から5cmぐらいに刻まれていた。(記録では23.96尺)
  
桜田門 内門
 その先、内堀通りの桜田濠沿いを進むが、日陰に欠しく、汗をかきながら次の目的地、半蔵門を目指す。

桜田門


 その前に水準原点を尋ねることにし、国会議事堂前の庭園に向かう。2007年の探索の時にも訪れたが、厳かな石造の小さな建築物に収められているもので、当日持参した旧版地形図にも陸軍参謀本部、陸地測量部がこの地にあったことがしっかり記されている。
 さらに三宅坂から次第に高度を上げ、半蔵門に近づく。

半蔵門
半蔵門の両側の濠は深く、半蔵濠の水面の標高は15.98mある。ところが今まで歩いてきた桜田濠は最低標高の日比谷濠とほとんど同じ程度(1.43m)。つまり半蔵濠と桜田濠の水面の差は14.55m。ダムのような落差であると云われる所以である。それは、皇居の濠の水は、主に北側の神田川(荒川水系)から取水し、僅かに時計周りに流れているとことが理由のようだ。南側が多摩川水系からという説もあるが、いずれにせよ、この水位の差は、何かに利用できないものかと思う。
その半蔵門は門の手前、内堀通り沿いで封鎖されている。半蔵門の土手は通行不可なのである。記録では半蔵門外石井枠(92.59尺)に几号水準点が存在するようなのだが残念ながら確認は出来ない。遠くから門の写真を撮るだけであった。
 武村公太郎「日本史の謎は「地形」で解ける(PHP文庫)によると、半蔵門は江戸城の正門だった!と推察している。ここからまっすぐ西(新宿方面)が甲州街道であり、しかも尾根道なのである。江戸時代の古地図にも「御城」の表記が甲州街道を正面に据えていることから、かなり頷ける推察だ。



ゲートの先の半蔵門

尾根道
 さてその正面の尾根道(現在は新宿通り)を平河天満宮に立寄りながら四谷に向かう。確かに両側は坂道で、尾根沿いを歩いていることが実感できる。
 四谷見附をクランク状に旧道を辿ったところで、あまりの暑さに我慢できず、涼を求めひと休みとする。もちろん、ちゃんと冷房の効いた冷たい泡を含んだ飲物をオーダーしたことは言うまでもない。

四谷界隈
 すこし英気が戻ったところで、同行の高橋嬢に地元界隈の案内をお任せ。西念寺の服部半蔵の墓や四谷怪談の於岩稲荷などを見学。四谷の地名は四つの谷があったことからなのか、四つの家があった事からなのか、2つの説があるようだと伺う。

西念寺・服部半蔵の墓

お岩稲荷

大京町路傍

この先、予定通り新宿に向かうか、このあたりまでで今日はおしまいとするか、多少意見の分かれるところであったが、とにかくもう一つ残った几号水準点を確認してから決めようということになり、新宿御苑南端、大京町路傍の独立標石に向かった。これは 上西氏のHPに記されていた標石で、20cm四方、高さ20cmの花崗岩の上面にはっきり几号標が刻まれているものだ。地理寮雑報に記されている独立標石で「青山六道辻」にあったものが何かの理由で移動したものではないかと氏は推察している。

大京町の几号独立標石


 今回の探索はこれで終了とし、いちばん近い千駄ヶ谷駅に向かうことにした。やや早めの時間で、お店がまだ開いていない為、なかなか最後の重要な〆にありつけなかったが、ようやくたどり着くことができ、頂上を極めた感がしないでもなかった。

 2014年7月24日 参加者:9名 (北野、平野、今井、片野、鶴田(泰)、高橋、川口、小島、近藤)

―――参考―――
●日本山岳会所蔵・1万分1仮製地形図(東京近傍、日本橋・四谷・中野)M44製、現行図は1:10000地形図(日本橋・新宿)H11製
●竹村公太郎著「日本史の謎は「地形」で解ける(PHP文庫)第5章「半蔵門は本当に裏門だったのか」
●竹内正浩著「地図と愉しむ東京歴史散歩」(中公新書)
●HP:都区内の几号水準点を訪ねる

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