忘年山行・奥多摩むかし道

日程 2006年12月9日(土)
コース 奥多摩駅〜休憩所〜白髭神社〜しだらく橋〜水根集落〜水根入口〜水と緑のふれあい館〜(バス)奥多摩駅
参加者 石岡、植木、岡田、辻橋、松田、武藤、山本、永田、菅原、小山  計10名  (敬称略)
記録 小山
随筆 石岡
 
奥多摩むかし道
この道は、旧青梅街道で甲州裏街道とも呼ばれた。
――ちどり足山行――

12月9日(土)小雨煙る駅に下り立つ9名、菅原さんの挨拶の後、9時半歩き始めた。駅前通りを抜け氷川大橋を渡ってから家々の間を縫って狭い坂道を進むと山道らしくなり左側の崖下には小河内ダム建設当時の鉄道線路が見え隠れしていた。道なりに遠く眺めると山の中腹のところどころに紅色や黄色のかたまりが目に付く。
雨は小降りになってきた、傘をさしたり、杖がわりにし、30分程歩くと槐木(さいかちぎ)に着く、ここは最初の休憩所(トイレ有り)だ。係りの二人は、雨天の場合どの辺で「山賊の酒盛り」を開くか思案中だった。午前10時と言えば昼食にはチョイト早い、しかし場所としてはここを置いて他に当ては無い、結局「槐木(さいかちぎ)」に決めた。(写真は一部拡大してご覧になれます)


槐木前の休憩所


おでん談義
 早速、おでんを人数分より多めに鍋で温めた。辻橋さんが各人均等に発砲スティロールのお椀に分けてくれた、みんなが持ち寄った日本酒、焼酎、ワイン、ウィスキー、つまみ、漬物、煮物、など所狭しと並べられた。
庇から冷たい水滴がかかり、思わず足を小屋に運んだ。アルコール分が、身体中に廻り始め、口も滑らかに楽しい山談義や世相話に花が咲き、笑いが耐えなかった。ふと見上げると直ぐ前の一本の木の枝にカケスが止まっていた。彼(或いは彼女)は人間どもの愉快な宴をじぃーっと見つめているではないか。首をかしげながらあの様子では、呆れ顔と見受けたが……。「山のカケスも〜鳴いている〜。一本杉の〜」と誰かが静かに口ずさみ始めた。ついに合唱と相成ったところで鳥は飛び去った。やがて宴も終わりに近づいたところ、例の鳥が再び姿を現し、同じ場所に同じスタイルで止まった。余程暇だったか、吾らに特別興味を持ったのだろうか。  和らぐ気持ちを引き締めて、11時出発、小中沢橋で小滝を眺めて小休止。白髭神社を参拝、急な階段を下りた所で中高年男女数人と行き交う。惣岳の成田不動尊では松田さんがパーティを代表して参拝して来た。
しだくら吊り橋は中程をそろりそろり行き、渓谷を見下ろす。ダークグリーンの川面が所々に見られ谷の深さを思わせた。その昔、馬方が荷を背にした愛馬を「水飲み場」に引いて来た跡を覗き込んだ。



白髭神社


奥多摩渓谷

 縁結び地蔵では、手を合わせて後半生の幸せを笑顔まじり熱く拝んだ「ひと」も居たようです。
道から家の中が丸見えの民家を通り抜けると多摩川沿いの急斜面に、へばりついた家が数件目の前に現れた。
霧雨に煙る山間は、水墨画を見るようでしばし、幽玄の世界に心を奪われた。
平坦な道をお喋りしながらユックリ歩く。西久保トンネルの手前で左に折れ、菅原さんが先頭になり、ほぼ真っ直ぐな急坂を登っていく。むかし道のゴールが近くなって、暫らく登山気分を味わう、メンバーが「ほろ酔い」+「ちょっと汗かき満足」になっただろうか。(小山は精一杯でした)
瀧のり沢、青目立不動堂から一気に下り水根に出た。出口手前の畠一面に青々とした野菜に似た草が広がっていた。説明版を読んで見ると「ジギタリス」と言って毒草なのだ、鹿も食べないそうだ。
歩きながら道路壁を見上げると、絵柄つきの「きじ打ち便器」が行儀よく此方を向いて一列に並んでいた。「不思議な光景だなぁ」
水根沢遊歩道の落ち葉の絨毯を踏みしめ、水と緑のふれあい館に着く。各人各様に休憩を取り14時58分奥多摩行きバスを待つ。
奥多摩駅前の「幸楽」で打ち上げ。(岡田さんはJAC谷川雪上訓練に行くので先に帰った)先ずビールで乾杯。楽しい山談義に酒を酌み交わしながら、出てくる料理も全て平らげた。やがて永田さんが到着。社業で忙しいところ駆けつけてくれ感謝感激、宴は更に盛り上がり、和気あいあいの内に、お開きとなった。しかし帰りの車内では静かに?二次会が開かれた。焼酎、ワイン、日本酒、ウィスキー、おつまみに満足度アップ。
雨の中忘年山行に参加してくれました皆様に感謝します。


望年山行:〜奥多摩「むかし道」を訪ねて〜石岡慎介

 新宿駅で千葉から来たらしいカツギ屋のお婆さんに尋ねた。「失礼します。背中の三段箱は50`位ありますか?」「50`チョット切れるべーか!」 「ウヒャー!!! ありがとさん」そんな早朝会話を楽しんで、集合地点の奥多摩駅へ向かう。
旧青梅街道で、一年締めの山行ならぬ歩行訓練をするためである。奇しくも「英米と交戦状態に入れり」と絶叫した真珠湾奇襲の成功から65年経った日の翌日で、同好会9岳人が自分の年も忘れたかのように昔道へ“寒参り”であった。
幹事お二人は三泊四日の山旅にふさわしいような大ザックを背負っているが、東京郊外の山裾、渓谷沿いのむかし道を歩くにしては、「ハテナ!! デカすぎるな・・・?」と感じる。
駅近く奥氷川神社にある樹齢650年という鎌倉三本杉を左手に舗装道を登っていくが、先頭“和尚”は若者のごとくハイピッチ。木炭運びの人馬が苦労した名残の急坂を「大丈夫やろか?」である。
出発して1時間くらい経ったろうか、瀟洒な休み場があった。小雨交じりなので、どこか野外が難しいと判断したのか,奇策なのかリーダーが突然荷解きをはじめてハテハテ・・・ハテナである?? 
ザックからは、大きなアルミ鍋,コッヘル、バーナーそして9人分のおでん材料、お酒類などがゾクゾク出てくる。分担運びしない思いやりに感謝しつつ、早く軽量しないと、大東亜の戦ではないが、「欲しがりません。勝つまでは!」と重さ加減にも我慢があるというものだ!!
午前10時から「おでんに熱燗」ならぬ冷酒、焼酎で早めの忘年宴会が始まった。朝酒懇親会には一抹の不安があったが、これから歩く筋肉細胞が適度にイキイキするよう願いながら、早めの目出た気分である。

急流のごとき世なれどおでん酒(羽公)

 おでんとはおもろい料理名である。と思って調べると田楽の御所言葉とあり、室町貴族の串に刺した豆腐のみそ焼きが江戸庶民の焼き豆腐や魚肉練りもの煮込みに転化したという。江戸時代には屋台の定番になったというが、当日の立ち飲み岳徒庶民にも好物である。おでんとベートーヴェンの取り合わせも妙だが、JAC人財は兎にも角にも多士済々である。合唱バリトンパートにイキイキとされるM氏も参加されたが、この国は “すべての民は兄弟よ”“苦しみ突き抜け悦びを”と両国国技館で大合唱する時代なのである。
周りを見渡すと、木辺に鬼と書くサイカチ〔西海子〕の巨木があり、それを囲むようにミツバツツジの冬芽が翌春のほころびを待っている。山茶花の花弁が散り落ちて鮮やか、清楚な風情も漂う。T教官の凛とした声「これ椿じゃないわよ、花首ごと落花してないから! 侘助もいいわね!!・・・」。賑やかな宴会に仲間入りしたいのか「カケス」が何度も飛来しては、一団を見下ろしていた。ルリ色の羽が綺麗で、“人真似鳥”とか誰か口添える。
めずらしい巨樹なので後で調べるが、説明文ではサイカチ〔西海子〕とハリエンジュが同一混同されていないだろうか? 樹木図鑑によると、サイカチはカワラフジノキという別名であり、長さ30aほどの豆果報をつけ石鹸代用のサポニン成分があるという。幹枝には分岐したトゲがあり現場に枯れた見本があった。ハリエンジュは別名ニセアカシアといって明治初期にアメリカから渡来して植樹され野生化しらしいが、朝酒現場はどちらが真相か不明である?
いよいよ歩行開始。ほろ酔い気分でもJACらしく自制が効いていて、誰〜れもふらつき山行はしていなかった。
教育委員会がいたるところ見所を整備しており、今世紀の杉伐採大運動にそってこれからの奥多摩は変わるだろう予兆に気付く。安らぎをくれる滝と清流、飛鳥期の渡来人をまつる神社、昭和天皇の皇太子即位碑、巨樹巨岩伝説、厳道の人馬一体の故事来歴などに丹念に肯きながらゆったりと歩を進める。
馬方衆が休んだ茶屋跡の石組みが眼に入り、馬の水瓶用にくりぬいた岩石に触れみんな感慨深げ。今は急流にかかる橋桁で遊べる岳人だが、狭い旧道では多くの荷馬が谷に落ちたそうで、馬頭観音の供養塔にもみんなやさしい眼差しを投げかけていた。
やがて文化勲章の川合玉堂翁の歌碑に着く。平安ひらかなの判読がむつかしい。明治6年愛知生まれの巨匠が昭和32年84歳で御岳で他界されたとある。この国の原風景に憧れる和歌の意味だけ掲示されている:
 “人里はなれた山の上で息をひそめするように生活している集落はなんと言うところだろうか? 私もいつかきっとあのようの所で余生をおくりたいものだ”
後でわかるが、こんな心象を画伯は詩情豊かに詠っている:
  「山の上のはなれ小村の名を聞かむやがてわが世をここにへぬべく」(玉堂)
舗装道路と別れ、クヌギ、ナラ、シイなどの落葉雨のフカフカ小径に入り癒される。小雨に濡れてしっとりとやがて朽葉となっていく。
奥多摩は、縄文人が集落形成していたほど愛着の土地柄であったことが、ゴール地点の《水と緑のふれあい館》で観察した発掘土器、石器, 矢じりなどからもよくわかった。それほど杉大植林の国策遂行前は、天然林の水と緑豊かな自給自足の宝庫だったようである。
道すがら地蔵尊、道祖神や神社や不動堂など至るとこにあり、人と信仰の遺跡の道を辿っているようにも想われた。中世、江戸期は旅人や牛馬にとって難所が多かったようで、無事息災の山旅がどれほど祈願されていたか今の比ではない祈りの心象が窺えた。
やがて昭和に入り東京府の近代化、人口増がすすめば、当然自然破壊と再生利用が始まり、その象徴みたいな小河内ダムの堰堤が現れた。今は東京都民の水がめのような存在で、借り出された労働力や建設資材運搬のレールが往時をヒッソリ語っていた。
奥多摩のみならず日本全域だろうが、「よくも!! まあこれほど杉植林を??」と圧倒される。交付金行政によって一億総火玉となって天然林を伐採し、四角四面によくもあれだけ杉、檜林としたものである。そんなお山の一部を歩行しながら、これからどうすればお山が昔日の自然林の姿に少しでも回帰するのか? 石原都政の肝いりで始まったが、何百年と気も遠くなるような年月である。
奥多摩駅へ戻って、今日も元気に歩けたことに感謝する岳人であるが、その名も「幸」せを「楽」しむ処で反省会となった。しあわせの「し」は《する》から連用し、それが皆で《あわさって》できたのが、「し+あわせ」という。幹事リーダーの感性は、自分たちが山行を「する」事が幸せなのでなく、自分たちの想いがみんなの「参加する、歩行する」ことと響きあい「あわさって」時をわかちあうことにあったのではなかろうか?こころ晴れ晴れした幹事殿だった。
皆が楽しむのを観て、背負子自身も楽しんでいるような山遊会!!
「おねーさん! お銚子20ぽん??」・・・と景気いい。
お山の“さち”によって、心の連衆の“さいわい”が生まれた。

山のあなたの空遠く、「さいわい」住むと人のいう(カール・ブッセ)


Page Top



この改行は必要→