個人山行 八月の一の倉沢

日程 2005年8月8〜9日
参加者 高橋、小山、石岡
記録 石岡慎介

 8月8日 小泉大乱が覚めやらぬ数日後,“三匹の岳徒”が水上に向った。いよいよ、今世紀の日本の命運を定める分水嶺の雲行きか?久し振りの無人山小屋逗留で各人ザックは結構な重量だ。水上駅前で蕎麦昼食を味わいながらも、ご主人好みか、店内に飾ってある鰐淵晴子の若き、豊麗なヌード写真を耽美する。40年くらい前の「平凡パンチ」引き伸ばしか懐かしい。
 リーダー提案通り、一の倉の沢をまずみたいので、タクシーで一気に飛ばした。地元ドライバーによれば、水上温泉郷は、銀行管理が多く、その中でも「千寿庵」とかいう一泊35〜50000円と高いお宿は結構繁盛とか。差別化のマーケティングにのる高級人種を想像する。
 昭和30年代中頃からか、「初登名誉」のラッシュか、深夜便で来ては駅前泊で睡眠不足の上に、未熟な岸壁技術が重なり、若人の幾多の命が失われた昔話もしてくれた。
 一の倉沢到着。ガスっていたが、幸いまだ頂上稜線は見えた。天に向け刃を突き立てるように荒々しくそそり立つ岩峰。魔物が潜んでいるような錯覚だ。
 例年になく下まで沢沿いの残雪が多いそうで、岩山の奥から流れ出る水には、30秒と手をつけておれなかった。穂高、剣と並ぶと日本三大つい立に感動する。

          夏山の水際立ちし姿かな(虚子)

30分くらいか、見上げながら、明日予定の巌剛新道に思いをはせ、マチガ沢を見上げたり、見下ろしたりしながらの登りを期待する。一の倉は、グレード6級とか難易度高い岸壁とあり、倉とは岸壁の方言とか知った。
 帰路は、土合の小屋までテクテク散策。リーダーの父が大正時代によく歩いたという、峠の石組みがすっかり苔むした今を懐かしく語る。新しくなったロープウェイの舞台は、明治18年には、群馬/新潟線を結ぶ清水峠が開通式典の場とあり、元老山県有朋も参加したようだ。
 やがて、慰霊園の広場について、20年振りだろうかしばし休憩。谷川岳開拓者で、土合の小屋の初代中島喜代志氏の碑がある。
 昔は真新しかった案内板も少し荒れていたが、山に眠る人に、真の安楽を祈り、今東光和尚が揮毫した「寂静」と再会。800名近い遭難者名簿は、昭和6年から平成16年とある。 20年前の秋は町中が、お線香の匂いとお花で全国合同慰霊日だった。10月第一日曜日だったか? そこここの岸壁の中に鉄板が埋め込まれているが、女性岳徒らしいビーナスヌードのレリーフもあった。

          手に触れし汗の乳房は冷たかり(朱鳥) 

そうだ、盆飾りの季節だ。勇躍山に命をかけた岳人らが、はかなくも苧殻の足で立つ瓜の馬に乗って、家族のもとに帰ってくる頃だ。

          おもかげや二つ傾く瓜の馬 (波卿)

前線の影響か、発達した雨雲がたれて、局地的には強い雨が予想されていたので、翌日山小屋まで7時間とたっぷり行程に、是が非でも踏破したいというわけでもなかった。ご推奨の豪華な夕食に、みんな舌鼓だった。
 1時間も経った頃だろうか、食が進まない岳友が部屋で休息したいという。どうしたか余り気にも留めなかったが、相棒二人は暢気に10代や40代から始めた山行を今の想いで語っていた。
 お互い人生も折り返し点も過ぎると、山への想いも枯れるというか、清らしくもなるものだろうか?「こころの中で大切にしていたものを守っていきたい」とか「山にただ抱かれ、山と一緒にいたい」というようなことだったろうか、部屋で休息の友のこともしばし忘れて語った。ご執心の高尾山のごみ拾いボランティア活動は、きっと少しずつ輪が広がる「大人の志」かもしれない。
 飲み直しに部屋へ戻る。どうも友に元気がない。そういえば、待ち合わせた高崎の駅で、いつもの明るさが感じられなかった。鼻水が多く、寒気がするのが気掛かりだが、ともかく早く寝て明日に備えるだけだった。
 早朝になって、まったく様子がおかしくなった。顔面蒼白、悪寒がするのか少し震えがあり、咳もある。痰もからむ。布団の上に直立できないのだ。「風邪だけではない、絶対おかしい!」直感だった。咄嗟に5年前の鼻水タラタラの親父を思い出した。女将に即刻救急車を頼む。悪寒がきつく、体温38.5度、不整脈で酸素マスクがつけられる。5人相乗りして利根中央病院へ急行するが,1時間以上が、とても長く感ずる。
  「何事もありませんように! 彼を強くして下さい」と天の父に祈る。

誠実な大塚先生は、懇切丁寧に説明くださる。左胸部下が白くなったX線写真をみせてくれた。急性肺炎だ。抗生物質の点滴で応急処置だが、1〜2週間の入院が勧められる。東京の住まいの近くに、先生の紹介状で、そのまま入院するしかない。希望する入院先日野市立病院を聞き出し、事務にノーとは言わせない手配を完了してほっと安心。リーダーは40キロ以上かザック二個運ぶ
 汽車の乗り継ぎ帰京は、スムースだった。目指す病院も待っていてくれた。奥様にも、やがて連絡がとれて来院された。笑顔がもどった。当地の医者にも立場があるのか、えらく慎重に検査時間をとる。やっと我ら仲間も呼ばれ、説明を受けたが、大塚先生を同じ診断で、1週間から10日入院を勧められた。岳友はきついお仕事で、疲労蓄積し体力が弱っていたのかもしれないが、呼吸器系の細菌は簡単に入り込むのでこわい。お山は体力を使うから、神さまが「ムリするなよ」と教えてくれたのだ。 何もかも全てに感謝した一の倉だった。
 帰宅してから、綴り方が上手になるように、父が昔買ってくれた「綴方風土記」を書庫で探した。昭和28年頃のリーダー小学生時代の作文がお話の通り見つかった。転載を許してもらおう。

「高野長英のかくれが」

「日本の科学者」という本で、高野長英のことを知ったとき、ぼくの心の中に、何かぐっとわいてくるものがありました。それはにくしみです。長英は、幕末の洋学者で、シーボルトについて蘭学を学び、友人とともに尚歯会をつくって、政治、経済など研究したり討論したりしました。そしていつも熱心に勉強をし、病人もみてやった。しかし、とうとう渡辺崋山といっしょに、幕府を批判したからよろしくないといって、捕らえられてしまいました。ろうに入れられて六年目、近所の火事にまぎれて、ろうから逃げ出した長英は、各地を転々と歩き回り、「学問をするにはやっぱり江戸でなければだめだ」といって、自分の顔を硝石でやいて人相をかえ、青山にかくれて沢三伯と名をかえ、研究をつづけました。長英は秋になって散った落ち葉をそのままにしておき、幕府の役人が近づけばすぐわかるようにしかけておいた。ある日、葉がカサコソとなったので、裏口をでようとしたが、もう追っ手がいてにげられず、こしのあいくちをぬいてひとりをきり、かえすやいばで、のどをついて自殺してしまったのです。長英を知ってからは、その自刃の場所を知りたくてたまらなくなってしまいました。そしていろいろ本をよみました。しかし出ていません。そこえ先生がその場所は青山にあると話してくれたので、そのときぼくは心の中でワットさけびました。ぼくはかどのやおやに行き、近くの学生にきき、美術館にもいって、長英の碑をさがしました。けれどだれも知っている人がいません。長英のなくなった町にすみながら、なんてなさけないことだと思いました。くやしくなって、「自分がすんでいる土地くらいのことくらいおぼえておけ」と大声でさけびたくなりました。

いくらさがしてもわからなくて、ある夕方先生の家にたずねていって相談してみました。「おかしいな。高野長英伝という本に地図があるんだけどね」と、先生は言われた。その翌日、ぼくは神田の古本屋を二十二軒も歩いて、やっとその本をみつけてきました。月曜日、僕たちは先生とその本の地図をたよりに、長英のかくれがのあとをさがしにいった。六丁目四十三番地はどこですか、とたずね歩いたあげく、本に出ていた場所は、もとある男しゃくのやしきだったのが、「いろは」という料理屋になっているのでした。「いろは」の門をくぐり、玄関にはいていった先生は、やがて出てきて、そこの女中さんとの話をぼくたちにつたえてくださった。女主人がるすで、女中さんはなにもしらないというのだった。ぼくは、こんなりっぱな科学者のなくなった場所を、料理屋などにしないで、政府で保存してたいせつにしておくべきだとおもいました。

(渋谷区 神宮前小6 高橋武夫)


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