しおうじやま

大宰府市のすぐ北になだらかに広がる四王寺山は、最高点のある大城山(410m)を中心に岩屋山・水瓶山・大原山と呼ばれる4つの山から構成され、総称として四王寺山と呼ばれる。白村江の戦いの翌年である664年、大城山の山頂に古代山城である大野城が設置され、中世には岩屋山の山腹に岩屋城が築かれ、戦国時代末期の岩屋城の戦いの舞台にもなった歴史ある里山。

   
大宰府政庁跡   この標識の「市民の森」方面に進む   市民の森入口
   
東屋と石の門   高橋紹運の墓所   岩屋城址登り口
   
岩屋城からの登り   水城址と春日・大野城・福岡方面   大宰府市街

四王寺山は、大城山をはじめ古代山城遺跡が数多くあり、周囲の散策が楽しめます。

観世音寺(かんぜおんじ)

百済を助けるために九州に下った斉明天皇が朝倉橘広庭宮で亡くなり(661年)、その子の天智天皇が、母の菩提を弔うためにこの地に観世音寺建立を発願したことが『続日本書紀』に記されています。

寺は80数年をかけて天平18(746)年に完成し、奈良の東大寺、下野(栃木県)の薬師寺と並んで日本三大戒壇のひとつに数えられています。かつては講堂、金堂、五重塔などが建つ大寺院でしたが、その後、火災や大風に遭い、残念ながら創建時の建物は失われてしまいました。

戒壇院(かいだんいん)

戒壇は、正式な僧侶となるための授戒を行なう場所です。正しい戒律、受戒作法を伝えるため、大変な苦難の末、日本に渡ってきた僧侶・鑑真により、天平勝宝6(754)年、東大寺に設けられたのが始まりです。ここ西戒壇では、西街道諸国(九州)の僧侶を対象とし、天文23(1554)年まで授戒が行なわれたという記録が残っています。元禄16(1703)年、藩命によって観世音寺を離れ博多禅宗四ヶ寺の管理となり、現在は博多聖福寺の末寺で臨済宗の寺となっています。

特別史跡太宰府政庁跡(だざいふせいちょうあと)

古代、西街道と呼ばれた九州一円を統括していた太宰府は、外交・貿易などの対外交渉の窓口として重要な任務を課せられていました。その機構は中央政庁に準じたもので、地方機関としては最大規模の行政組織でした。
発掘調査によると、7世紀広範に掘立柱建物が建てられ、8世紀初頭に礎石を用いた朝堂院形式の建物に整備されました。しかし、この建物は藤原純友の乱によって焼き討ちされましたが、10世紀後半には再建されました。現在、見ることのできる礎石は、この再建時のもので、正殿は重層風に造られ、屋根は入母屋か寄棟造りであったと思われます。

岩屋城「本丸」址(いわやじょうあと)と高橋紹運(たかはしじょううん)

岩屋城は戦国時代の16世紀半ば、宝満城の支城として、豊後大友氏の武将高橋鑑種(たかはしあきたね)によって築かれましたが、天正12(1584)年、主家の大友宗麟に背き、城を追われてしまいました。代わって吉弘鎮理(よしひろしげまさ)が城主になり、後に高橋家の名籍を継いで高橋紹運となります。紹運は、天正14(1586)年、九州制覇を目指す島津軍5万の大軍を763人で迎え撃ち、16日の激戦で、豊臣秀吉軍の到着を待たずに玉砕し落城したといわれています。

この山は山頂を極めるというより、山麓、山腹に広がる大野城の遺跡を巡り、古代人の生活に思いを馳せてみましょう。
一帯は県民の森として整備されています。県民の森センターなど休憩施設も多く、安心して歩くことができます。
アクセス 西鉄福岡駅から大牟田線の五条駅が基点になります
コース 五条駅→観世音寺→岩屋城趾→増長天礎石群→焼米ヶ原→水瓶山→太宰府
親子
コースタイム
五条駅から四王寺山 登り1時間30分 四王寺山から太宰府1時間20分
交通 西鉄大牟田線の利用が便利。またコミュニティバスが太宰府市内を循環しているため、観光を兼ねて利用できる。

守りのための四天王寺

774年(宝亀5年)大野城があった場所に四天王が奉納され四王寺が建立されました。四天王とは、持国天、 増長天、広目天、多聞天(毘沙門天)をいい、それぞれ東南西北を守護する神様で、外敵からの守りを祈願したものです。のちに大城山(大野山)、岩屋山、水瓶山、大原山の4つの山は、「四王寺山」と呼ばれるようになりました。

刀自という職業?

万葉集の代表的歌人である大伴坂上郎女(おおとものさかのうえのいらつめ)は、のちに太宰府を思い出して、次の歌を詠んでいます。「今もかも大城の山にほととぎす鳴き響むらむわれなけれども」。大伴坂上郎女は幾度か夫と死別した後、大伴旅人の刀自(とじ)として、大伴氏の一族をとりしきったと考えられています。刀自とは、いまでいう主婦のことですが、戸主のことをいいます。当時は、家は女性が主で、男性はその女性のもとを訪れる妻問婚が一般的でした。家事をとりしきる女性のことを家刀自と言いました。

664年に大城山の山頂に大野城が築かれました。これは唐・新羅からの防衛のためでした。さて、このとき朝鮮半島にあった国は何と言うでしょうか。

1. 高句麗

百済は唐軍の攻撃で660年に滅亡。のちに高句麗も668年に唐軍によって滅亡しました。倭国(のちの日本)は、百済を復興するために661年に唐軍と戦いますが(白村江の戦い)敗北。唐・新羅からの攻撃を恐れて大宰府や瀬戸内海を中心に古代山城などを築きました。また北部九州沿岸には、防人を配備しました。

2. 新羅

3. 百済

岩屋山にある岩屋城は、戦国時代末期、島津氏と大友氏が戦った「岩屋城の戦い」で有名です。島津軍は5万の大軍で岩屋城を攻めました。はたして岩屋城には何人の城兵がたてこもったでしょうか。

1. 763名

戦国時代の1586年(天正14年)、九州を平定しようとした薩摩の島津氏は、大友氏の家臣、高橋紹運がたてこもる岩屋城を攻めます。壮絶な戦いで、高橋紹運以下全員が討ち死にしたとされています。しかし島津氏は岩屋城を落としたものの多くの兵を失い、豊臣軍の九州上陸に対抗できずに、薩摩へ撤退を余儀なくされました。※島津軍と岩屋城の城兵の人数は諸説ありますが、2桁の違いがあったことはどの説も変わりません。

2. 7630名

3. 76300名

四王寺山情報

太宰府市役所(コミュニティバス)Tel. 092-921-2121
県民の森センター Tel. 092-932-7373

 

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