TOPIC-6 

AGC トピック

TOPIC7-へ>>>
<<<TOPIC5-へ

避難してから33年     
          厚木の山に”帰郷”
     

      日本地図の原点「一等三角点」

普段、目にする日本地図。それを作る壮大な作業の「第一歩」が、神奈川県で踏み出されたことをご存知だろうか。明治期、地図作製の任務を帯びた陸軍省参謀本部測量課は、測量するためになくてはならない重要な見印、「一等三角点」=メモ参照=を、日本で初めて県内に付けた。その一つが。この3月、「元の場所に戻った」、という知らせを聞いた。日本地図の起点とも言える目印は、どんな運命を辿った末に”帰郷”したのか。

まずは”故郷”の厚木市の鳶尾山(標高235m)山頂に向かった。ハイキングコースの長い階段を上がると、雑木林を縫うように山道が続く。前日の雨で、気を抜くとすべって転びそうだ。
予想以上に険しい。汗だくで歩いていると、初老の男性2人に「大丈夫?」と声を掛けられた。もう一息と踏ん張り、一時間後、たどり着いた山頂に三角点はあった。
4つの石に囲まれた四角い御影石の標柱。「一等三角点」と彫られた文字は旧字体だが、石を固定したコンクリートもまだ新しく、”引越し”したての雰囲気が漂う。

鳶尾山の三角点は、1883年12月に設置。1971年、土砂採取で山肌の亀裂が生じ、ずれてしまう恐れがあり、約1.2キロ離れた愛川町立中津小学校校庭脇(標高92m)に移設した。なぜ山頂から小学校に?

「愛川町の公共地で鳶尾山に一番近かったため」だとか。
だが近年、同町に「山へ戻したほうがいい」「近代測量の記念碑的存在で保存すべきだ」という問い合わせや提案が寄せられ、三角点を管理する国土地理院に相談。「戻しても問題ない」と判断され、移設が実現した。

33年間、三角点が中津小には、マンホール大の穴を埋めた跡がある。ここに標柱が入っていた。71年の移設時には地表にあったが、児童がつまずいて危険なので2001年12月、穴を掘って地下に入れられ、金属製のふたがされたそうだ。
小島富治校長(56)は昨年4月に赴任。前任の校長から、見学者が来るよ、と聞いた。「本当に何人か来ましたよ。教員が案内して、ふたを開けて見せました」と笑う。
登山好きで、厚木市飯山で生まれ育った小島校長は続ける。「鳶尾山は地元で暮らす人にとっては故郷の山。三角点も故郷に戻れてよかったですよ」

国土地理院によると、ずれる恐れのある一等三角点を移設する例は数年に一度あるが、再び元の場所に戻るのは「きわめて異例」という。二度の引越しと約2年の地下暮らしを経験した鳶尾山の三角点は、近代測量の出発点というだけでなく、奇妙な略歴をもつ唯一のものかもしれない。

県内には計八つの一等三角点=表参照=がある。梅雨入り前の5月、ハイキングがてら、日本地図を作った先人たちの足跡をたどってみてはいかがでしょうか。(小川慎一)

2004/5/7東京新聞より)

一等三角点

「三角点」とは、正確な地図を作るうえで最も基本的な「三角測量」の基準となる点。一辺の長さとその両端の角度がわかれば、他の二辺の長さがわかる−という三角形の性質を利用する。ある2点間の距離を正確に測って「基線」とそ、その両端から3つ目の点までの距離を測る。三辺の距離が決まったら。各辺の両端と新たな点との距離を測る。これを繰り返す。

日本では1882年に、現在の相模原市麻溝台Cと座間市ひばりヶ丘@との2点間約5kmを「基線」としたのが始まり。そこから広がった幾つもの三角点が全国を覆うように置かれ、それをもとに1925年、5万分の1の地形図が完成した。

三角点は1等から4等まで区分され、最も重要度の高いものを「一等三角点」と呼ぶ。現在、全国で約40kmごとに972点あり、地図作成のほか、地殻変動の観測などにも利用されている。

神奈川県内の一等三角点

@ 北山町の丹沢山(1567m)山頂
A 大磯町の浅間山(181m)、浅間神社横
B 座間市ひばりヶ丘1鳥羽内科敷地内
C 横浜市緑区長津田町、飯綱神社前
D 相模原市麻溝台4、私立麻溝台中学校西側
E 箱根町の冠ヶ岳(1438m)山頂
F 逗子市の二子山(208m)山頂
G 厚木市の鳶尾山(235m)山頂

TOPIC-11に関連項目

TOPIC 5

UP

TOPIC 7

TOPIC INDEX

AGC HOME

基線探索TOP

Copyright(C) Y-Kondo