2006年3月号   マナスルへの道A

第一次マナスル登山隊失敗の原因と教訓
 
 山田 二郎
 
マナスルが、日本山岳会隊によって初登頂され、今年で50年になります。マナスルの軌跡をたどる二回目は、1953年の第1次登山隊に若手隊員として参加した山田二郎氏に敗退の経緯について書いてもらいました。



 1953年の第一次マナスル登山隊は前年の偵察の結果を受け、三田幸夫隊長以下、田口、高木、加藤(泰安)、辰沼、村山、加藤(喜一郎)、村木、山崎、石坂、山田の各隊員、毎日新聞から竹節、依田、学術班として川喜田、中尾といったメンバーで、戦後初のヒマラヤ8000峰に向かう日本を代表する登山隊として、3月に日本を出発、ネパールに向かった。

 途中約18日間のキャラバンの後、でチベットに近いサマ部落郊外にベースキャンプを設けた。そして、マナスル氷河左岸にC1とC2(後にともに撤収)、およびC3、5600bのナイケ・コルにC4を、黒岩の上にC5(後に撤収)、北峰から落ちるアイスフォール手前にC6、プラトーに向かって延びる大斜面の裾、6600bにC7、7100bのノース・コルにC8を設けた。第一次のアタック隊員、加藤(喜)と私、サポート隊が、プラトー上の最終のC9を設けるべく登攀を始めたが、途中7350b付近で時間切れとなり、そこに雪洞を掘ってビバークした。

 しかし、翌日は猛吹雪でやむなく撤退。その後、全員がナイケ・コルのC4に集まって休養の後、最後のアタックを試みるべく加藤(喜)、石坂、山田が、5月31日、プラトー北端7500bのC9に入り、翌日、頂上を目指して出発。しかし、頂上まで僅か375bを残し、7750bを最高到達点として撤退することとなった。

 一般的に登山隊が成功するときは、意外とたいした困難に遭うこともなく、スラスラと事が運ばれることが多いものだ。しかし、第一次マナスル隊では、経験不足からくる失敗と、その対応という悪戦苦闘の繰り返しであったように思う。が、また得られた教訓も多かった。

 60年以上も前のことで、記憶の定かでない部分もあるが、その失敗の原因と教訓について述べてみたい。

1) ヒマラヤのスケールに関する認識不足
 失敗の最大の原因は、ヒマラヤの巨峰についてのスケールに関する認識不足に加えて、超高所での運動能力低下を甘く考えていたことにあろう。
 極地法でのキャンプ数もBCから最終キャンプまで4つか5つで足りると考えたが、実際には6つでも足りず、プラトー北端からのアタックとなり、7750bで時間切れとなってしまった。運動能力も、日本での経験(1時間で約300bの高度差を登る)をさらに割り引いて計算したものの、実際にははるかに低いことが分かった。

2) 酸素ボンベの問題
 酸素ボンベは空輸が禁止されたためイギリスで充填したが、輸送途中で酸素が漏れてしまって使えなかった。最終キャンプからのアタックの際、無酸素で膝までもぐるラッセルを強いられ、その苦しさは今でも忘れられない。

3) 食料計画の失敗
 ヒマラヤの超高所でどのような食料を用意すべきかもまったく未知のことで、日本から用意していったものはことごとく不評であった。

この献立は、私が学生時代に『ヒマラヤンジャーナル』に掲載されていた「ヒマラヤでの食料問題」を翻訳したもので、「消化するに当たって酸素消費量の少ないもの」であるとか「梱包も簡素なものであること」などが例示された、欧米人向けのものであった。したがって日本人の口には不向きで、最初の数口で酷評を受ける羽目になってしまった。

唯一の救いはキャラバン用の食料だった。日本の山で普段食べ慣れたものが用意されていたので、これを高所食料に転用してなんとか切り抜けることができた。しかしこのため、帰りのキャラバン食が不足するという失敗につながってしまった。

 また、ありがたかったのは加藤(泰安)さんが工夫してハイキャンプに届けてくれたヤクのメンチボールとか卵焼きで、最終キャンプで食べたメンチボール入りの「おじや」のおいしかったことは後々までの語り草となった。「さすがは満蒙遠征の古強者」と改めて敬意を表した次第であった。


 失敗から得た教訓は以上の通りであったが、それ以外の経験と教訓について述べよう。

 第一次のアタックはプラトーまで到達できず途中の急斜面でビバークを迫られたが、私たち(加藤喜一郎と私)は、慶応山岳部の伝統であった雪洞を掘ることで解決することができた。雪洞の内部は、テントとは違って外は猛吹雪でも、温かく安心して過ごすことができた。この経験から、数年後、ヒマールチュリで西面から挑む際、偏西風の脅威にも雪洞を掘ることを考え不安はなかった。

 今になって第一次隊の顔ぶれを見ると、「おとなの隊」であったことが、印象深く思い起こされる。三田さんをはじめ田口、高木、加藤(泰)、辰沼、竹節、村山などの先輩たちが隊の首脳部を構成しており、彼らからずいぶん、教えられることが多かった。

 私たち若手の隊員は、元気はあったが、日本の冬山の経験しかなく、ヒマラヤの8000b峰、特に氷河がどんなものかまったく知らなかった。こうした若手を指導してくれた田口、高木両先輩から多くの教訓を得ることができた。特に北峰からのアイスフォールを突破した際の、田口さん達のルート作りには舌を巻いたものであった。また、泰安さんからは遠征(探検)での貴重なノウハウを教えられた。

 ただし、隊長選任については、私たち若手には理解しがたいものがあった。私たちの考えでは「登山隊とは最初に自ら隊を率いる隊長があって、その考えに従って隊員を選んで隊を組み立てるべきもので、それでこそ完璧なリーダーシップ、チームワークが期待できる」というものであった。この点第一次隊は、日本を代表する最初のヒマラヤ登山隊で、隊員も全国からの選抜チームのため、隊長を最初に決めることは困難かもしれない。しかし、少なくも第二次隊からは原則通りにすべきではないかという考えであった。が、どうも山岳会の様子を見ていると、隊長が後になって決まるらしいことがわかってきた。若手の中でも血気盛んな加藤(喜)、村木に私などは、そうした気配を感じて「隊長雇われマダム論」などと不穏な言動を撒き散らしていた。

「三田さんに直訴しよう」と一夕、3人は鶴見にある三田さんの自宅に押しかけたことがある。ところがいざ三田さんの温顔の前に出ると、さっきまでの意気は消え、肝心の直訴もできず、ご馳走の肴とウイスキーにすっかり良い気分になってしまった。「あまりはきりと申し上げた訳ではないが、三田さんは私たちの考えを理解してもらえたに違いない」などと、いいかげんな言い訳をして帰ってきた。私たち3人の考えは、ようやく第三次隊の槇さんで実現することとなった。

 実際の登山活動に入っても、第一次隊の首脳部は極地法の経験がなく、登山開始当初は諸物資の輸送にも不慣れで、上部キャンプに上がった私たちアタックメンバーは荷揚げに不安を抱いていた。BCに問い合わせたところ「若手の反乱」という噂が広まって、一時は険悪な雰囲気になったこともあったが、自然に解消された。


 当時、ヒマラヤ遠征向けの装備などどこにもあるはずがなく、それぞれメーカーに頼んで特別に作ってもらう必要があった。テントは吉田テントに、酸素器具も篠田先生(名誉会員)のご指導で川崎航空で特注したものであった。エアマットは藤倉ゴム、アイゼン、ピッケルは門田のヒマラヤ向け特製であった。キャラバン用の靴は、最初、外国隊の真似をしてバスケットシューズを用意したが、佐藤久一朗さんから「そんな踵のない靴でどうする」とお叱りを受けて、佐藤さん自らに特別の編上靴を作ってもらうことになった。これがその後改良されて「キャラバンシューズ」なる軽登山靴となったことを知る人は少ないかも知れない。

 キャラバンシューズに限らず他の装備も、一次、二次、三次とその都度、隊員の意見を採り入れて改良が施され、年を追って立派なものとなっていった。これはまさに当時の日本産業界の躍進の一面を物語るものといってよいであろう。

 近年ナムチャバルワ遠征に参加して気がついたことだが、今では立派な装備が登山用具店で容易に手に入る。感心すると同時に、私たちが苦労と同時に楽しんだ装備の改良のおもしろさを、現在の隊員は味わえないのではないかとの感慨を持ったことも事実であった。

 こうして、第一次隊は、戦後、はじめての大規模なヒマラヤ登山隊ということもあって、いくつかの過ちを犯すこともあったが、その過ちを教訓として、第二次、第三次マナスル登山隊へと受け継がれていくのである。