2006年2月号   マナスルへの道@

マナスル進言のなぞ
 
 藤木 高嶺
 


1956年5月9日、日本山岳会隊によって、マナスルが初登頂されました。復興期にあって、画期的な出来事でした。そこで5月の初登頂に向けて、その足跡を辿ります。1回目は藤木高嶺氏に、山の選定などを書いてもらいました。

瓜生卓造さんの断言

いまから10年前、マナスルの初登頂に成功した第三次隊の主力隊員だった松田雄一氏から、次のような手紙を受けとった。

「川喜田二郎さんに当時のお話を伺ったりしておりますと、やはりお父様(藤木九三)の西堀栄三郎さんへの(マナスルの)進言が、田口二郎氏の言われる通り、大きく影響されているようです。今更、波風を立てるつもりはございませんが、マナスル登頂40周年を機に、何らかの形で記録に残しておきたく存じますので、今後共何卒よろしくお願い申し上げます。今西寿雄さんも亡くなられましたし、今となっては、もう少し早く当時のお話を伺っておけばと思っている今日この頃です。(以下略) 1996年3月12日」

私は松田氏からの便りに接して、父・九三が西堀さんにマナスルを進言した事実は、「知る人ぞ知る」で、マナスル登山隊員は、ほとんどの人が承知しているものと思っていたので、ごく一部の人を除いて、いまだに箝口(かんこう)令が敷かれたような状況なのかと、不思議に思ったくらいだ。山男の口の堅さを思ったりもした。

前述の田口二郎さんも雑誌か会報で、この件を書いておられたのを記憶しているが、残念ながら手元には見当たらない。『早稲田文学』『文学者』などの編集委員をつとめ、山の著書も多い作家の瓜生卓造さんは、『日本山岳文学史30』の「第8章・スポーツ登山の隆盛、第3節・藤木九三」の文中で、次のように書かれている。

「ヒマラヤや南極に日本人が気軽に遠征するようになったころ、藤木はすでに晩年を迎えており、彼の地での活躍は見られなかった。しかし、戦後も朝日の南極室の長として、日本の南極探検に大きな役割を果たした。日本山岳会に、マナスルという山を進言したのも藤木である。彼はティルマンの書によりマナスルの存在を知り、これこそ日本隊が狙うにふさわしい山と思った。しかし、朝日は学術探検には熱を入れるが、登山の方は、ナンダ・コート遠征(昭和11年)以来毎日に伝統がある。朝日の藤木が毎日に持ちこむことは障害が多い。藤木は今西錦司に話した。今西から木原均とリレーされ、毎日がマナスル行の後援者となった。藤木がこのように多彩な活躍ができたのは、むろん第一に彼の才と努力のたまものだが、また朝日新聞を介して、多くの有能な友に恵まれていたのも見のがすことはできない」(1977年記)

ほかにも藤木九三がマナスルを進言したという記述が、山の雑誌などにあったと聞いている。当時のAACK(京都大学学士山岳会)とJAC(日本山岳会)の上層部の人たちの間では周知の事実だったと思われる。

ネパール鎖国解除で、ヒマラヤ熱隆盛

1950(昭和25)年にネパールは鎖国を解き、各国の登山隊によってヒマラヤの高峰が、次々と登頂される時代を迎えた。しかし、それより2、3年前から、ネパールの鎖国解除が間近いという情報を得た欧州の登山先進国は、解除と同時に目的の山域に入るための情報を収集、登山活動の準備などを進めていた。

父・九三は朝日新聞記者だった立場と、戦前にロンドンに駐在していた体験などから、英国山岳会、英国地理学会、ロンドン・タイムズ、朝日新聞の在欧支局などを通じて、逐次、欧州登山界の動静、ヒマラヤ情報などを入手していた。

ヒマラヤに関する執筆については、雁部貞夫さんが『岳人』で連載中だった「山の本 山のひと」の1992年3月号に、次のように書かれている。

「藤木の著作を何冊か読んで、私の注目したことをもう一つ書くと、かなり早い時期にヒマラヤ登山について、何篇もの文章を書いていることだ。ワークマン夫妻のことを記した文章など特に印象深い。深田久弥さんが本格的にヒマラヤを書き始める20年前のことなのである。このことを私に教えてくれたのは、関西にあって、ある時期、藤木九三さんの薫陶を受けた諏訪多栄蔵さんであった。藤木の所蔵するヒマラヤ本を借りて諏訪多さんのヒマラヤ研究が始まった。」

これはマナスルとは関係のない事だが、父・九三のヒマラヤ研究に対する熱意をくみとってくれている。1950年、フランス隊(モーリス・エルゾーグ隊長ら9名)が、人類初の8000b峰として、アンナプルナ(8091b)登頂に成功したころ、父はすでに『ヒマラヤの登高史』(弘文堂)の著書を出していた。

学術の朝日、スポーツの毎日

ネパールが鎖国を解いた1950年前後、父・九三のもとには予想以上のネパール・ヒマラヤの情報が次々と寄せられた。そこで一念発起した父は、「日本の某登山隊がめざす山として、最適な山はどこだろう」と、あくまで机上プランとして熟考した。その結果が、ネパール・ヒマラヤのほぼ中央に位置し、標高8156b、世界第7位の高峰、マナスルということになった。 

ちょうどその頃、ヒマラヤ情報に強い関心を示し、手がかりを求めて父の元に再三出入りしていたのが、AACKの西堀栄三郎さんだった。AACKと父との関係はたいへん密接なもので、父は1933年の満蒙学術調査団の報道特派員として同行、また翌年の冬季白頭山遠征や、その後の熱河省方面の学術調査などにも同行し、特にAACKの今西錦司さん、西堀栄三郎さんらと親交があった。

そんな矢先、西堀さんが父を訪ねて、甲子園の自宅に来られた。応接間は洋間で広々としていて、洋書を中心として、千数百冊の山の文献がぎっしりと四辺を取り囲み、足立源一郎画伯のマッターホルンの油絵が壁面を飾っていた。

ヒマラヤ談話にはぴったりの雰囲気の中で、父からマナスル構想を聞いた西堀さんは、身を乗り出して、この計画をAACKでやりたい旨を宣言した。これがいわゆる、西堀さんへの進言といわれるものだ。直ちに西堀さんは今西錦司さんらに相談され、今度は今西さん、西堀さんら数人が訪ねて来られた。この中に梅棹忠夫さんもおられた。

52年秋、今西、西堀ら数名のマナスル踏査隊が、ネパールへ出発直前、この計画は他国のヒマラヤ遠征隊にならって、国家的事業として、AACKから日本山岳会主催に委譲された。これは今西さんから、当時の日本山岳会の槇有恒会長に依頼され、即座に了承されたものである。しかしこの段階では、朝日新聞社の後援が内定していたのだ。 

当時、朝日新聞は英国隊のエヴェレスト登山の報道権(隊員の手記、記録写真、著書など)を、独占しようと目論んでいた。これには莫大な費用を要した。父・九三としては、英国隊と日本山岳会隊の両方を後援する考えだった。しかし、村山長拳社長から「どちらか一つに決定してほしい」と、経費の点などから迫られ、頭をかかえて困惑した。父は熟考の末、英国隊のエヴェレストを選び、マナスルは毎日新聞社に譲ることに決定した。踏査隊が、東面に登頂可能なルートを発見し、帰国したのと同時であった。

そこで「学術の朝日、スポーツの毎日」という名言(?)を、AACKの連中から言わせるようにしたのだった。当時は、関係者は当然のように納得してくれたものだが、相次ぐ日本の海外登山隊を、朝日新聞が後援するようになった事を考えると、矛盾する話ではある。なぜか、父・九三が西堀さんにマナスルを進言した事実も、一般には内密とされてしまった。父は英国隊と、日本山岳会隊双方の成功を、誰よりも念願していたものだ。やがて英国隊のエヴェレスト初登頂、日本隊によるマナスル初登頂などの劇的なニュースがもたらされたのは周知の通りだ。

これに関連する事を、私が初めて知ったのは51年1月のこと。私は大学卒業前の4回生だったとき、日本山岳会関西支部長だった篠田軍治先生から「マナスル登山隊の隊員に推薦するから」と、日本山岳会への入会を勧められた。寝耳に水で驚き、学生の身で入会金や会費は痛かったが、すぐさま入会した。篠田先生は「君のお父さんが西堀さんに推薦した山らしいよ」と言われ、さらに驚いた。篠田さんと西堀さんは、京大理学部時代、ほとんど同年代だったから、あり得る話だろう。

私は卒業後、朝日新聞に入社したので、この計画には隊員としての参加を確信していた。だが毎日新聞社の後援が決定し、私は大ショックを受け、涙をのんで隊員候補を辞退した。私は「ヒマラヤばかりが山ではない」という反骨精神で、61年、関西学院山岳会ペルー・アンデス遠征隊を組織し、責任者として参加した。これが私の運命を大きく変える結果になるとは、思ってもみなかった。

地球の裏側まで、苦労してやってきたのだからと、計11のピークの登頂をやり遂げただけでなく、梅棹先生やアンデス考古学の権威である泉靖一博士の指導に従って、インカ遺跡やアマゾン源流民、インディオの秘境を訪ね、秘境の民族探検の魅力にとりつかれることとなった。やがてこれがライフワークとなって、体験民俗学を確立し、大学教授として指導するようになるとは、何が幸いするか全く分からないものだ。

マナスル登頂から20年ほど後、西堀さん自作艇のヨット「ヤルン・カン号」で、相模湾のクルージングを楽しむ機会があった。日本酒をたしなみながら、西堀さんが「お父さんにいい山を推薦してもらって、嬉しかった」と断言されたが、これがマナスルだと信じ、留飲が下がる思いだった。昔の人の口の堅さには、感心したり、あきれたりする。