2005年10月号
エヴェレストの南と北
 
 宮下 秀樹
 

100周年を迎えた日本山岳会B エヴェレストの南と北

 1956年のマナスル初登頂以来、日本山岳会の最大目標は、エヴェレスト登頂であった。70年のネパール側からの日本人初登頂と、80年、解放後の中国側からの登頂を、当時の背景も含めて、宮下秀樹氏に綴ってもらった。

「世界の最高峰に日本人も登りたい」
 各国の8000b峰初登頂の舞台に、56年マナスルの初登頂によって、遅ればせながらやっと日本もスタートラインに立つことができた。山岳会では、59年に若手を中心にヒマール・チュリに遠征を出したあと、今後どうするかいろいろ論議が重ねられた。

 結局、エヴェレストに目標が定まった。63年5月、許可の申請に三田幸夫副会長がインド、ネパールを訪問した。しかし、すでに65年春はインドに決定されていたので、やむなく目標を66年春に変更し、登山許可の内諾を得て登山料の半額をデポジットすることができた。53年春の英国ハント隊の初登頂以後、各国が競ってモンスーンをはさんだ春秋のシーズンに登山申請を続けていた。にもかかわらず、許可を入手できたのは、三田さんの幅広い人脈のおかげといえよう。

 前記の「登りたい」という素直な感情は、当時の先輩達の偽らざる気持であった。国際的にみれば、日本は一世代くらい遅れていたので、一日も早く世界の登山界に参入したいと願っていた。当然、東南稜からのハントのアタックの記録が教本となり、徐々に準備が始まろうとしていた。

 しかし、65年3月、突如ネパール政府は、向こう5年間のネパール・ヒマラヤ全域の登山禁止を発表した。突然の発表に、関係者の衝撃は甚だしかった。おりから我が国では、1人500jの外貨自由枠が決定されたばかりであった。この機会に満を持して海外登山を試みようとしていた登山家たちは、やむなくヒンズークシュ、コーカサス、アンデス、ヨーロッパのバリエーションへと目標を変更せざるを得なかった。

 68年8月、ネパール政府は全面禁止の一部を解除し、新登山規則の成立を待って、エヴェレストを含む38座の解禁を発表した。うまくいけば69年春には実施可能となるので、エヴェレスト登山再開の気運が一気に高まった。

 しかし、この4年間の登山休止期間、登山界の変化には著しいものがあった。53年のエヴェレスト初登頂により、山登りの最大の夢のひとつが失われたと感じた世代には、より高きを求めるより、より難しきを求める傾向が強くなっていた。

 なぜ、今さらエヴェレストなのか、という疑問であった――。

 エヴェレスト南壁(南西壁)の計画がいつ、誰から発案されたのかは定かではないが、少人数でのラッシュアタック、無酸素、頂上での幕営等奇抜に近い案も出ていた。

 すでに5ヶ国も登っている東南稜からの登頂に、一国の総力を懸けるにはあまりに大袈裟、陳腐な計画であろう。反面、未知の南壁を攻略する力が我々にあるだろうか。世界最高峰でのバリエーションを登れるのか、不安は増すばかりだった。

 さらに、スキー隊との競合問題が発生した。今まで1山1隊を厳守してきたネパール政府が、エヴェレストのスキー滑降を撮る撮影隊に、同時期の入山許可を出したのである。両隊で運ぶ大量の物資、おそらく1500名を超えるポーターの動員、サポートしてくれるシェルパの人数と質などの問題が派生した。そして何よりも、あの危険度の高いウェスタン・クウムのアイスフォールを大勢の人が通過することなど、問題は複雑で深刻だった。

 資金面では、毎日新聞やNHKなど、多くの危企業から支援を受ける事ができ幸運だった。半面、同じ70年春に、マカルーに遠征する東海支部の人達には、多大な迷惑をかけることになってしまった。上層部の人達は、これらの対応に振り回されて時間を費やし、戦略を考える余裕もないほど、その苦悩には大変なものがあった。

 69年の第一次と第二次偵察隊のあと、いよいよ70年春、本隊が松方三郎隊長以下30名の大部隊で出発した。

 主目的とされた南壁突撃は8050bで断念したが、悲願の登頂は東南稜より2組4名が成功した。一次隊の松浦輝夫、植村直己、2次隊の平林克敏、チョタレの4人である。

 「日本人が始めて頂上に立った」、「ヒマラヤの大岩壁に挑戦した意欲」は、後世に残る確かな足跡である。参加した隊員が、準備不足もあり、十分に計画を消化しきれないまま山に向かった感は否めないが、大きな隊で登り、多くの知己を得た事は貴重な経験になったはずである。事後、それぞれに自分の進む道を再発見、再認識したに違いない。


 ネパール・ヒマラヤ鉄の時代ともてはやされた70年代も半ばを過ぎ、中国の文化大革命の嵐も終息を迎えようとした頃、各国の登山家はそろそろ中国登山の開放近しとみて、中国との接触を始めだしていた。

 当会でも、中国からの訪日団があると、有力者目当てに何度も接触を試みた。体育関係の要人の場合には、西堀栄三郎会長にも出席を願った。しかし、要人の口からは「山は国境近くにあるから、スポーツ交流の最後だね」と何回も繰り返され、時には絶望的な気持ちになった。

78年の夏、突然、日中文化交流協会の村岡理事の訪問を受けた。中国と未交流のスポーツ団体の代表が訪中するが、山岳会では誰が代表にふさわしいかとの事だった。即座に西堀会長がベストであると回答した。組織上からみれば、日本山岳協会の方がふさわしいのであろうが、未交流の場合は個人のパーソナリティーがものをいう国である。西堀さんの交渉能力の抜群さはすでにマナスルで実証されており、これは大正解であった。

 旅先の北京大学では、飛び入りでご専門の話をされたり、非公式ながら体育総会との会談が設定され、登山協会の要人たちとも会見できた。これが、西側諸国で、我が国が開放後の一番乗りを果たす事ができた大きな要因であったと思う。しかしこの事は、後々まで日山協から恨まれた。

 79年6月、待望のチョモランマ登山許可の内諾があり、7月に当会から渡辺兵力副会長と宮下、日山協の今井田研二郎・丹部節雄両氏、読売新聞の星野部長、日本テレビの幹部が訪中した。当初から読売グループから全国的な支援を受け、とてもありがたかった。

 初日の会談では「中国にはエヴェレスト峰など存在しない、あるのはチョモランマ峰だ」と強く主張され、カッコ書きでエヴェレストと呼称する許可を得るのに半日も要した。何しろ西側諸国との初交渉でもあり、中国側は慎重な上にも慎重で、会議も国際部が主導、登山協会員は末席に座っているだけだった。

 60年の中国隊の写真集を見て「チョモランマの顔はこの北側だ。これなら登れる」と確信を持てたので、北壁登攀を提案した。

 中国側は、氷壁登攀にはあまり実績がなかったので、あのルートは不可能だと当初は取り合わなかった。後から続くであろう各国登山隊を思い浮かべながら、失敗は許されないと覚悟はしたが、周囲の勧めもあり、計画は北東稜(北稜)との2本立てとし、議定書に調印した。

 ただ残念なことに、中国側からの情報提供は極端に少なく「過去に事故を起した事はない。ノース・コル側で雪崩は1度も起きていない」というものであった。少ない情報を信用したばかりに、秋のノースコル偵察時に雪崩に遭った。日本隊は負傷で済んだが、中国隊員3名を失ってしまった。

 70年のエヴェレスト隊の経験から、隊員選考では北東稜か北壁かの希望を聞き、誰とザイルを組みたいのか、その気持ちを大切にして決定された。隊は完全に2つに分け、それぞれ独立した隊として編成された。

 80年2月、渡辺隊長以下北東稜13名、北壁12名で出発した。隊員の技術、経験は10年前と比較して格段の進歩をとげ、めざましい活躍が展開された。

 北東稜では加藤保男が最後は単独で、北壁では重廣恒夫、尾崎隆が新ルートから登頂することができた。しかし両隊とも、登頂後酸素なしのビバークを強いられるほど過酷であった。テレビカメラを回し続けた中村進は、最後の100bで力尽きたものの、素晴らしい映像を撮ることができた。

 北壁では残念ながら雪崩で宇部明君を失ってしまったのは、痛恨の極みであった。

 開放第1号の栄誉を担った登山であったが、日本登山界の面目を保つことができて安堵した。二兔を狙って良かったと思っている。大きな登山のあと脱力感にとらわれる事があるが、継続こそ大切であると帰国前に北京で、ナムチャバルワ峰と、ボゴダ山群の5年間継続登山の申請をした。

 両峰とも、公式な登山申請は世界で初めてであった。ナムチャバルワ峰は重廣たちが、ボゴダ山群は81年から鹿野勝彦たちが登山を展開し、それぞれに大きな成果を上げた。よき仲間を育てたのは喜ばしい限りだ。

 今後、いかなる登山が展開されるのか私には予測もつかないし、語る資格もない。ただ、経験や技術は一足飛びに発展するものではなく、常日頃の積み重ねによるものが大きいと思う。