2005年9月号
マナスル登頂と登山ブーム
 
 松田 雄一
 

100周年を迎えた日本山岳会A マナスル登頂と登山ブーム


日本山岳会100年の歴史において、8000b峰の一座、マナスルに初登頂できたことは、特筆に値することであろう。そのマナスル登頂とその後に続く登山ブームを、隊員のひとりである松田雄一氏に綴ってもらった。

日本山岳会は、今年10月、創立百周年を迎えるが、1956年のマナスル登頂は、ちょうどその中間点にあたる。
 戦後10年を経過したこの時期は、わが国の歴史上からみても、ヒマラヤの登山史からみても、注目すべき年と言える。
 一方、14座ある8000b峰が、1950年にフランス隊によって、アンナプルナ峰が登られてから、1964年に最後まで残されたシシャパンマ峰が登頂されるまでの15年間は「ヒマラヤの黄金時代」とも言われている。
 本稿では、時代背景を踏まえて、この時代の日本の登山界を回顧し、マナスル登山の果たした意味について考えてみたい。

戦後のヒマラヤの夜明けと許可交渉
 大ヒマラヤ山脈に連なる国々も、1945年に大戦が終結し、1947年にこの地域を支配していた英国から、インドが独立したので、ヒマラヤの王国ネパールも、世界各国から注目を浴び、開国を迫られた。1950年、フランスの登山隊によって、アンナプルナに人類初の8000b峰登頂が成された後は、欧米諸国から相次いで登山許可の申請がなされていた。
 1951年9月、日本はサンフランシスコにおいて、世界48カ国との間で講和条約に調印し、海外登山に出られる日も近くなった。
AACK(京都大学学士山岳会)のメンバーは、学術会議などで海外に出る機会も多く、1952年1月にカルカッタで開催されるインド学術会議に招請されている木原均博士に随行して、ネパール・ヒマラヤのマナスルの登山許可を入手すべく、西堀栄三郎氏を派遣することにしていた。
 このインド・ネパールへの西堀ミッションが登山許可入手するまでの一部始終については、『山岳』第91年(一九九六)に、「マナスルへのプロローグ」として詳述されているので省略するが、占領下の日本から国交のないネパールに入国することが、いかに大変であったかについて、西堀氏本人が、『会報』二三九号(1965年5月号)に「マナスル以前」と題して載せている。

マナスル初登頂までの五年間
1952年4月には、サンフランシスコ講和条約が批准され、日本も独立国家となった。そしてこの年、西堀氏が申請してきた、マナスルの登山許可がネパールから届いた。この登山許可は、AACKの好意で日本山岳会に委譲された。本会では機を逸すことなくマナスルのルート偵察と1953年の登山隊準備のため、今西錦司隊長以下6名の踏査隊を空路ネパールへ派遣した。
1953年の第一次登山隊の準備は、踏査隊の現地からの報告をもとに、短時間のうちに準備できたが、高所用食料などについては、必ずしも十分なものとはいえなかった。それでも第一次登山隊は、7750bにまで達することができた。
 1954年の第二次登山隊の準備は、第一次隊の経験を生かし、高所用の装備は、全面的に改良された。
 時、あたかも、戦後の経済復興の流れの中、朝鮮動乱によりもたらされた特需景気により、日本の経済は、にわかに活気づいていた。1954年の秋頃からは、輸出の増大により、好景気は、関連産業にも波及し、日本の景気も「神武景気」で活気があったからであろう。
 しかし、第二次マナスル登山隊は、予期せざるサマ村民からの登山阻止に遭い、ガネッシュ・ヒマールへ転進せざるを得なかった。

第三次登山隊マナスル登頂に成功
 1956年の第三次マナスル登山隊は、最後の切り札として槇有恒元会長を隊長に指名し、背水の陣で臨んだ。これに先だち、サマ問題の実情調査と登山許可取得のため、西堀栄三郎、成瀬岩雄両名をカトマンズに派遣し、更に念のため、55年秋に、小原勝郎隊長以下3名を第三次隊の先遣隊として、サマ村との友好親善を図るために現地に派遣した。
 第三次登山隊、槇隊長以下12名は、マナスルの山麓まで順調にキャラバンを進めたが、ここで再びサマ村民の登山阻止に遭遇した。しかし今回は槇隊長の誠意ある交渉で4000ルピーの僧院修復費用(当時の金額で約20万円)の寄進で解決することができた。
この隊は25歳から62歳までの年齢構成であったが、すべての隊員を平等に扱う槇隊長のリーダーシップのもと、ガルツェンを隊員に加えたチームワークは素晴らしかった。槇隊長は、とくにルートやキャンプ地の選定には慎重であった。プラトーや北峰からの雪崩、アイスフォールの通過には、万全を期し、高所へキャンプを進める前に、槇隊長の指示で、展望のきくナイケ山の中腹まで登り、終日雪崩の観察をさせられたことなど、今でもよく覚えている。
幸い、登頂時期の好天の予測も的中し、5月9日、今西寿雄、ガルツェン・ノルブの2名が第一次登頂に成功。引き続き11日、加藤喜一郎、日下田実も第二次登頂に成功した。詳しい行動については槇有恒著『マナスル登頂記』(毎日新聞社刊)にゆずることにするが、依田孝喜撮影によるドキュメンタリー記録映画『マナスルに立つ』(映配・毎日映画社制作、文部省特選)は映像としても記録(とくに8000b山頂での動画は世界で初めて)として申し分なかった。そのため、ドキュメンタリー映画部門のロードショーで新記録を樹立し、多くの人の共感をよび、わが国に登山ブームをもたらす要因にもなった。
 
海外登山ブームの夜明け
このマナスル初登頂の影響で、ヒマラヤは、多くの人に関心をもたれるようになったが、一般の登山者には高嶺の花であった。
その頃、海外登山や旅行には外貨の厳しい制限枠があり、大蔵省をはじめとする五つの省庁で構成されている海外渡航審議会という名の関門があり、スポーツ外貨、学術調査、国際親善などの外貨枠の予算枠内での、申請でないと認められなかった。この審議会で外貨裏付のある円の許可がないと外国への航空券や外国航路の船に乗ることもできなかったからである。
そのため、ヒマラヤに行けない社会人山岳会や大学山岳部の若者たちは、何時の日かヒマラヤに行ける日を夢みて、国内の山で、海外の山を想定した登山で精進するしかなかった。
マナスルに続く日本山岳会としての本格的な登山隊は、1959年にヒマルチュリを試登した登山隊があったが、他には1958年のチョゴリザ登山隊が目立っただけであった。しかし、いくつかの大学が計画したヒマラヤ地域の学術隊は、外貨の獲得が得やすく、何隊かがヒマラヤで成果を上げることができた。

大衆化された日本の登山界は新しい時代へ
目を国内に転ずると、山へ出かける若者たちが急増した。
1956年、政府が公表した『経済白書』には「もはや戦後ではない」と明記されたことにより、「日本は敗戦国」という意識は払拭された。若者の生活にも余裕がみられ、山には多くの登山者が訪ずれるようになった。当然のことながら、本会への入会者も急増することになった。
マナスル登山にあたり、毎日新聞社では、同社内に設けられた「ヒマラヤ登山後援会」を通じ、全国津々浦々の小学校、中学校の児童に募金を呼びかけ、多くの支援を受けていたので、「文部省特選」を受けた、長編記録映画『マナスルに立つ』は、全国の小、中学校を巡回して、上映された。今でもその時の感動を覚えているという話をよく耳にする。
1957年、井上靖の『氷壁』が ベストセラーとなり、ガストン・レビュファの『星と嵐』も人気を集めた。職域の山岳部も増え、外貨の事情で、海外登山に行けない社会人山岳会による困難な壁の登攀での活躍が目立った。
1958年は日本の登山界にとって、記念すべき年になった。前年の『氷壁』ブームに続き、山と溪谷社からは、先鋭的アルピニズムをリードする季刊誌として『岩と雪』の創刊号が、「1956‐8年積雪期登攀記録」の特集記事を付して刊行された。これとは別に串田孫一氏による月刊誌『アルプ』の創刊号が創文社より刊行され、登山ブームに拍車をかけた。本会の『山日記』も、この登山ブームの底辺の拡大に貢献していることは間違いない。
 更に特筆すべきことは、この登山ブームの先端で、新しいアルピニズムの方法として、積雪期のDV(Difficult Variation)の面で意欲的な活動をしている社会人登山家が中心となって、RCCU(第二次RCC)が結成されたことである。
この年の6月には金融が緩和され、再び高度成長(岩戸景気)が始まり消費も拡大され、レジャーブームが始まった。1960年には安保闘争があったが、国内の難ルートの記録も増え続け、登山はますます盛んになった。
1964年4月には東京オリンピック開催に先立ち、海外渡航が自由化されたので、ヨーロッパ・アルプスの登攀などが盛んになり、5マナスルの登頂で、大衆化された日本の登山界も新しい時代を迎えることになったのである。