2005年8月号
日本山岳会草創のころ
 
 近藤 信行
 

100周年を迎えた日本山岳会@ 日本山岳会草創のころ

       
1905年秋、小島烏水ら7人によって日本山岳会が設立され、今年で100年を迎える。10月の記念式典に向け、3回にわたりその草創期の足跡をたどる。1回目は創立当時の人々を、作家の近藤信行氏に執筆してもらった。

 ウォルター・ウェストンは、明治38年3月25日、二度目の日本滞在を終え、故国へ向けて出立することになるが、その四日前、横浜で知り合った四人の山友達をオリエンタル・パレス・ホテルの昼餐に招いている。その四人とは、小島烏水、岡野金次郎、武田久吉、高野鷹蔵であった。 

 そこでウェストンは、くりかえし山岳会の設立をすすめた様子である。さらに、もし日本に山岳会が生まれたならば自分を必ず加えるように言いのこし、烏水にスイスの植物学者シンレーターの“Taschenflora des Alpen Wanderers”を与えている。その本は、彼が北岳や鳳凰山に携えていったものであった。
このいきさつは、6月、すぐさまアルパインクラブに報告され、会長ブリストル、名誉書記マムはこころからの賛同を示した。それは『アルパイン・ジャーナル』や『山岳』に読むことができるのだが、烏水はその好意と激励を受けて、「紙裂けて電火発するを覚えたり」と書いている。 

 この明治38年の春以降、山岳会発足の動きはまことにあわただしいかぎりである。その主軸となったのは小島烏水だった。35年の槍ヶ岳登山、同行の友であった岡野金次郎によるウェストンの発見と接触、高頭仁兵衛や日本博物学同志会の面々の横浜訪問、その後の交友などをあげていくと、その機運は徐々にかもし出されていた。

その準備のため「同志の人々は、何十回となく会合した。恐らく何百通といふ手紙の、やり取りをやったらう」というほどだ。ことに越後・高頭仁兵衛の財政的援助について、山草学の城数馬(弁護士)は、高頭がいかなる身分の人かと調査に出向いている。彼はその途次、長野市に志村烏嶺をたずね、高頭が新潟県の大地主であり、貴族院議員の互選資格を持つことから調査の要なしという報告を受けるが、打電して彼の来訪をもとめ、権堂の花房屋で三者の会談をおこなった。その結果、高頭は山岳会の会計に欠損ある場合、向こう十カ年間、毎年千円(当時の会費千人分)を提供する、ただし十年たって自立できなければ解散すること、万一の場合を考慮し、ただちに山岳会のために、養老保険一万円に加入する、との確約が成立することになる。
烏水も横浜・東京間をしばしば往復し、関係各所に連絡をとり、知人を訪ねては入会勧誘をおこなっている。

 明治38年10月14日、日本博物学同志会の第十三回例会が開かれている。集まったのは市河三喜、小谷国次郎、河田黙、高野鷹蔵、田中健太郎、田中五一、武田久吉、内田清之助、梅沢親光、福田卓、北沢基幸、岸田松若の十二名であった。その席上、高野は塔ヶ岳採集登山の報告をおこなったが、散会後、その高野と武田、梅沢、河田の四人は、飯田河岸の富士見楼で、小島、城、高頭と合流、山岳会設立について話し合った。運営の実務、財政的な面について、会員獲得と宣伝、『山岳』刊行のことなど、最終的な打ち合わせがおこなわれた。
 この日のことは、『博物之友』29号(明治38年11月)に読むことができる。高野の報告については、「此ノ旅行ノ詳細ナル紀行ハ山岳会発行ノ『山岳』第一号ニ現ハルベシ」とあり、会報欄には「支会の設立」という見出しで「山岳及ビ山岳ニ関係スル一切ノ事ヲ研究スル目的ヲ以テ本会ニ『山岳会』ト称スル一支会設立サレタリ」と書かれている。

つづいて烏水によって「山岳会設立の主旨書」が書きおこされ、各方面に配られたが、『文庫』『新潮』(『新声』の後身)『明星』などには、つぎの勧誘記事を読むことができる。 

今回法学士城数馬、「博物之友」記者武田久吉、「日本山嶽志」著者高頭式、その他の同好諸氏と相質り、欧羅巴アルプス倶楽部の例にならひて、山岳会なるものを組織し、山岳を文学、芸術、科学等の諸方面より研究せんがため、本会の機関雑誌「山岳」を、毎年三回発行して、汎く同好者に儀たんとす、入会御希望の方には、規則書を呈すべきに就き、左記の拙宅宛に御申込を乞ふ。
 横浜市西戸部町山王山八百九十八番地
小島烏水                        

 ウェストンの招宴からわずか一年たらずのうちに、このような経過をたどるのだが、そこには、山と自然、学問と芸術にめざめた若ものたちの意気軒昂たる姿をみることができる。日露戦の末期から日露講和の時期を背景に、未知なるもの、美しきものへの探索が深められるのである。

「凡そ山岳が、一国の地文及び人文に、影響することの大なるは、今俄に説を要せず」とはじまる「山岳会設立の主旨書」は、「夫れ高山に登るは、即ち天に近づくなり」と述べながら、力づよい響きをこめて山岳愛好家にうったえる。

山は実に不朽の寿を有する理想的巨人なり、天火を以て鋳られたる儀表的銅像なり、全国民の重鎮として立てられたる天然的柱石なり、之を謠ひ、之を究むるは、永世の大業にして、且つ何ぞ今日不急の事と謂はむ、(中略)為すべきこと極めて多くして、未だ一も其緒に就きたるはあらず、之を大成するは、一に趣味嗜好を同じうする、諸君子の援護に待つの他はある可らず、蓋し是れ実に国民的事業にして、決して少数人士の能く為し得るところにあらざればなり、……

 アルパイン・クラブのひそみにならったとはいえ、山に関する研究、山岳趣味の啓発に寄    与しようという根本方針を打出したことは、新しい時代の到来を告げるものであった。はじめ博物学同志会の「一支会」として発足した山岳会も、みるみるうちに着実な歩みをみせた。後年、武田久吉は、庇を貸して母屋をとられたようなもの、と冗談に、ユーモラスに語っていたことがあったが、それも志を同じくするものの結集が  あったればこそ、である。

 山岳会成立の報は、各界で反響をよんだ。ことに地理・地質学、博物学関係の学者の入会があいついでいる。志賀重昂、神保小虎、山崎直方、小川琢冶、田中阿歌麿、佐藤伝蔵、白井先太郎らは特別会員(年会費三円)として参加。彼らは『山岳』への寄稿、講演などに協力を惜しまなかった。

そのほか、文学・美術関係者をはじめ多彩な顔ぶれがあつまって、会員は初年度において四百名をかぞえた。『山岳』第二年第一号(明治40年3月)の付録として出された会員名簿を見ると、四百十八名の記載があって、学者や山好きの青年にまじって多くの文学関係者、ジャーナリストも名をつらねている。小山内薫、柳田国男、前田曙山、畔柳芥舟、山崎紫紅、滝沢秋暁 、真下飛泉、伊良子清白、田山花袋、長谷川天渓、伊藤銀月、河井酔茗、正岡芸陽、久保天隨、島崎藤村、神津猛らの名がある。

烏水は「文学会にあらずして、かくの如く、多くの詩人文士を網羅した会の、他にあるを知らず、是れ本会の栄とすることなり」と書いた。