2005年2月号
海外の山1985〜2005
 
江本 嘉伸
 



 ホットな話題を追って毎月1度「海外の山」を書きはじめて20年がたった。私は大した山登りはしていないが、山を通じて得られるものに関しては貪欲だ。海外登山という、ある意味で恵まれた行為についてもできるだけ良いものを引き出し、何かを学びとりたい、と考えている。登山する人と登山の質は、その時代をうつす鑑(かがみ)と言えないこともない。個人の意志でやっていると思っている挑戦的な行為も、実は当事者も気づかないうちに背景の政治、経済の動きに大きな影響を受けていることもある。毎月のコラムでは書ききれなかったことがらを含め、海外の山をテーマに、この20年を振り返ってみた。日本山岳会100年の意味を「理解する」ことの少しでも足しになれば、と願う。

大変貌の20年
 「海外の山」は、1985年2月(476号)の「韓国の登山界」から先月号の「2005年1月の風景」まで書き続けた。海外出張など筆者自身の都合、あるいは会務報告など会報のスペース上の理由での休載は13回あり、掲載回数で言うと228回となる。
 1985年から2005年という20年は、「海外の山」というテーマでは、最も大きな変化のあった20年である、と思う。8千b峰の初登頂はとうに終わっているし、困難な課題もあちこち決着がついた。すでにヒマラヤの黄金期は過ぎて、「公募登山」とか「大衆化」とか、わけのわからない時期に入っているのでは、と見る向きもあるかもしれないが、それは狭い見方だ。
 日本山岳会の成り立ちもそうだが、登山は各国とも上流階級というか、インテリ層の余暇から発した。それも、西側各国が牽引車となり、時にはアジアのヒマラヤの国の住民を「教育」し、発展させていった。「日本山岳会」という名がいまもブランドとして一部の人々に憧れの念を持たせるのは、100年続いてきたそうした歴史への畏敬の念からだろう。
 山高きが故に尊からず、と言われるが、「海外の山」で世界最高峰エヴェレストが最も登場回数が多く、228回中、66回を数えた。テーマにしやすい山であるのはもちろんだが、これは一にも二にも、ヒマラヤ登山の変貌ぶりが象徴的にこの山にあらわれたからである。
 85年12月号の「延べ201人のエヴェレスト登頂」は、正直かなりの驚きで書いた。初登頂から「わずか32年で」この数に達したことへの驚きである。その驚きがいわゆる商業公募登山の拡大とともに、笑い話になってしまった。
 ヒラリー、テンジンが初登頂をなしとげて半世紀の2003年は過去最高の261名がエヴェレストに登頂した(70歳の三浦雄一郎も5月22日に登頂して世界を驚かせた)が、この傾向は変わらず、04年には通算実に2200人を上回る人がエヴェレスト・サミッターになった。普通の市民が登りに行く山となったのだ。
 世界最高峰登山のあまりの変貌ぶりに、多くの人々は冷静になろう、動じまい、とした、と私は思う。しかし“裸のサル”がここまで熱心に高みに登る意志を鮮明にし、実行に移しはじめたことは、大げさに言えば人類史上のエポックだと思う。
 ウェア、靴、テントなど装備の軽量化、商業公募登山の定着が大きな理由だが、何よりも、ヒマラヤの住民たちの登攀力が格段に向上したため、と言っていいだろう。

  テンジンの再評価
 『National Geographic』誌は、今年になって「exploration ー77best pictures of great adventure」という、探検・冒険史写真の特別版(2005年4月25日版)を発行した。極地、海中、空中、砂漠、洞穴などでの貴重なショット77点を集めたもので、登山ではたとえば、1924年エヴェレストのノースコルで頂上に向かうマロリーとアービンをオデルが撮った写真も入っている。
 この特集で編集長が「my top 10 explorers」として私見で「トップ10人」をあえて選ぶ試みをしている。
 コンチキ号で漂流したトール・ヘイエルダール、月に着陸したアポロ11号の乗組員、チンパンジー研究に捧げたジェーン・グドールなどをおさえて、トップに選ばれたのがエヴェレストに初登頂した、エドマンド・ヒラリーではない、テンジン・ノルゲイだった。
 テンジン・ノルゲイ(86年5月9日死去・72歳だった)については、「テンジンの悲しみ」として499号に書いた。ヒラリーとともにエヴェレスト初登頂の栄光を背負ったが、晩年は「皆、私のことを忘れてしまった」と、不遇をヒラリーにもらしていたことなどを紹介した。
 外国登山隊に「雇われて登る」仕事人、という先入観をシェルパたちについて抱きがちだが、振り返ってみれば、テンジンは特別だった。エヴェレスト初登頂に情熱を燃やして何度も挑戦、52年にはスイス隊のレイモン・ランベールとともに頂上直下300bまで迫った人間がついに登ったという意味で、ヒラリーよりも登山史上シンボリックな人物だった。 
 ともあれ、テンジンのプライドは、危険は伴うが、顧客の喜びのために力を尽くす新たな経済行為、ヒマラヤン・ガイドとして次代に受け継がれた。

  プラザ合意・冷戦終結・中国開放経済
 普通の市民がヒマラヤに通う条件として、資金の問題がある。当初は1ドル=360円の障壁があった。それが紆余曲折を経て1985年9月の「プラザ合意」で一挙に跳ね上がった。プラザ合意前夜の東京市場では、1ドル=242円であったが、88年の年初には128円となり、海外渡航は、実に手軽なものに変貌していった。プラザ合意は日本の輸出力を弱めた元凶といわれるが、登山はその大いなる恩恵を受けた。山登りという創造的な行為が、一面で「消費」の性格を持ちはじめた、とも言える。
 ゴルバチョフの出現と冷戦終結の影響も、この20年の大きなできごとだった。
 85年当時、注目されていたのが、ラインホルト・メスナーをはじめとする登山家たちのヒマラヤアルパイン・スタイルの成果と、ポーランド隊の強さだった。
 ラインホルト・メスナーは、86年10月16日、ローツェを登って14座全山無酸素登頂をなしとげた。「フェアなやり方で8千bを」と言い続けたメスナー。彼以後、先鋭的な登山家は14座派と美しい壁を目指す個性派に分岐したようだ。
 1980年、エヴェレストの冬期登頂をなしとげたポーランド人たちは84年にはマナスルの冬期初登を果たし、イエジ・ククチカは、85年1月から2月にかけて、8千b峰ダウラギリとチョー・オユーの冬期連続登頂に成功した。
 最高峰でも2500bに満たないこの社会主義国からどうしてこんなに強い登山家が生まれるのか、不思議だった。だから、86年5月中旬、日本山岳会の招きで冬期エヴェレスト隊のアンジェイ・ザヴァダ隊長(当時57歳・故人)以下7人のクライマーたちが来日した時の発言に注目した。  ソ連、ドイツの大国にはさまれ、150年にもわたって国が分割されていたことなど国の困難な歴史が私たちを強くしたと思う、とザヴァダは話してくれた。逆境が強いクライマーを育てることもあるのだ。
 そのことはソ連の登山家たちにも通じることだった。海外に出たいために、国内での熾烈な競争を経てヒマラヤに向かうソ連の登山家たちの強さは82年のエヴェレスト南西壁・ソ連ルートの登攀にもあらわれている。
 85年のゴルバチョフ登場とペレストロイカは、登山界にも影響を与えた。東西の登山家たちの交流が強まり、ヒマラヤ参入のパターンは多岐にわたった。ソ連崩壊後、一部の旧ソ連登山家は公募隊のガイドとなり、酸素ボンベ、軍事用大型ヘリコプターなどがヒマラヤで“平和利用”されていることは繰り返し書いた。
 社会主義国の中国でも80年代になって●小平の経済開放路線がうち出され、劇的な変化を遂げた。北京の中国登山協会がすべてを握っていた登山についても、チベット登山協会のような地方の権限が強化され、経済行為を含めて独自な登山活動を展開できるようになった。外貨をあてにしていた国家的登山も最近は、「金はある、自分たちの登山をやりたい」という市民志向にシフトしつつあり、裕福になった人々によるチョモランマ登山も実行されている。
 高峰のひしめく舞台、チベットそのものも様変わりした。2008年の北京五輪に向けてチベットのゴルムド(青海省)ーラサ間に鉄道の敷設工事が進んでおり、チベットがどこまで変貌してしまうのか、大いに気にかかるところだ。

   ひとつの宝『垂直の記憶』
 日本人の海外の山での活躍となると、どうしても優れたクライマーの死にふれないわけにいかない。84年2月にマッキンリーに消えた植村直己はじめ、この20年、名をあげきれないほど多くの登り手がヒマラヤや他の外国の高峰から帰らなかった。
 そんな状況の中で、最も困難な壁に挑み続けてきた人間、それも世界が知っているクライマーとして、山野井泰史・妙子夫妻の活躍だけには言及しておきたい。
 02年秋、山野井夫妻のギャチュンカンからの生還については、「ギャチュンカンで起きたこと」(691号)として3ページをさいて紹介した。夫婦は98年、マナスルで雪崩に埋まり、妙子が泰史を掘り出して、間一髪生還したこともある。しかし、04年春に山野井が出版した『垂直の記憶』を読んで、「生還」ばかり強調するのもどうか、と反省した。この書はクライマーが書いたものとして登山史に残る傑出した内容であり、この十数年の山野井のクライミングがつめこまれている。いい本は買うべし。日本山岳会の会員なら一読することをおすすめしたい。

  この20年は、14座とか、7大陸にはじまるナンバー登山、無酸素、最高齢、最年少、女性、スピード、カップル、父子、障害者、スキー、スノーボード、パラパウント、などの話題登山が注目された時でもあった。
また、氷河の後退、ベースキャンプの汚染など環境の問題が何かと取り上げられた20年でもあった。遭難した登山家が氷河の中から遺体となって発見されるケースも、ヒマラヤ、アルプスでは目立った。
 ASEAN諸国はじめ、ヒマラヤと無縁だった各国が参入したのも、この20年のことだ。多くの国々にとって、エヴェレストはまだ国威発揚の場でもある。
  1985〜2005年まで20年の「海外の山」を振り返ってみて、評価というものもまた、変貌することを実感している。その当時は正しい見方であっても、10年、20年たつとほかの事実や背景も絡んで、より俯瞰的な見方を強めなければならないものもある。
海外登山という歴史の中で、日本は中進国に近い先進国くらいに位置するのかもしれない。政治や経済の風圧を最小限にして登り続けてこられたという意味で、幸せであったとも言えるだろう。
が、現状は明らかに低迷しているように見える。
「海外の山」20年、枠を飛び出して新しいものを切り拓く人たちが、次の20年の評価を作り上げていくのだろう。