2004年9月号
国際人「ヒロ」の連続登山ー 2004年春から夏の記録から
 
江本嘉伸
 



 若手登山家の中でも、ユニークな世界を広げている竹内洋岳(ひろたか・34・日本山岳会会員)の「HAM計画」といっても、えっ?という方が多いだろう。この春この会報のコラム「海外の山」で手短に紹介した以外、詳細な報告はどこにも載っていないし、まったく個人的な山登りだから。「High Altitude Marathon」の略。ことし2004年プレモンスーンヒマラヤで、9か国10名のクライマーが参加して試みられた国際登山プロジェクトのことを竹内自身が命名した。「超高所耐久登山」とも称する、この連続登山からは、各国の登山家たちがチームを組んで挑戦する、ヒマラヤの新しい登山スタイルが展望できる。

■きっかけは01年のナンガ
 もともとは、「国際公募登山隊」への参加だった。2001年初夏、竹内は、ドイツのラルフ・デュイモビッツ率いるナンガ・パルバット公募登山隊に日本からただひとり参加した。アマ・ダブラムをラルフの公募隊で登ったことがある登山家の大久保由美子の紹介だったが、大久保自身は、急病で参加できなかった。
 公募隊といっても、実はいろいろだ、という事実を竹内はナンガで思い知った。リーダーのラルフ以下ドイツ人9、スペイン人3、オーストリア人1、リトアニア人1、そして日本人の竹内という構成で、8人が8千m峰を複数回登っているなど皆かなりのレベル。メンバーたちは16530マルク(97万円)を払い、個人装備をもって指定された日にラワルピンジの指定されたホテルのロビーに行けばよかった。  「この隊はコマーシャル・エクスペディションじゃない。インターナショナル・チームなんだ」と、リーダーのラルフは、強調した。確かに、この山に登りたい、と思う登山家たちのために準備された「合理的な」国際隊だった。
 隊の方針は、皆イーブン(平等)であること。一緒に動き、高所テントに全員で入る。「ヒロはどうしたいか?」と、竹内はいつも聞かれた。「客」ではなく、いい仲間同士になった。
 マカルー、エヴェレスト登頂者でもある竹内は高所に図抜けて強く、常に先頭でルート工作に活躍した。仲間たちは「働き過ぎの日本人」への親しみをこめて「マシン」あるいは「コマツ」と呼んだ。小松製作所の重機に竹内のパワーをたとえたのだ。
 6月30日のアタック当日も終始トップでラッセルを続け、仲間たちより1時間半も早くひとり登頂を果たした。10名が登頂したが、皆に「おかげで登頂できたよ」と、お礼を言われた。公募登山にはこういう楽しさがあるのか、と竹内は思った。

  ■「HAM計画」
 2003年には、カンチェンジュンガに行った。メンバーは、ナンガの時の隊長のラルフ、前年のマナスルでの縁でラルフと結婚したオーストリアの女性クライマー、竹内が「闘魂の」と形容詞をつけるガリンダほか竹内を含めて6人。天候が悪く、7200m地点までしか登れなかったが、ラルフたちとのチームワークは、さらに深まった。そうした中から2004年の「HAM計画」が生まれた。
 竹内が「HAM計画」と称した連続登山は、いくつかの小さな国際チームで構成され、3つのステージに分けられる。4月上旬からネパール、チベットでそれぞれの課題にトライした後、5月上旬にアンナプルナBCに集結し、ひとつのチームとして北面を無酸素アルパインスタイルで挑む計画であった。
 竹内は、今回もラルフ、ガリンダ・ペアとのお馴染みチームの一員として参加、手始めにXi-feng Peakという7200m峰に挑み、ついでシシャパンマ南西壁に転進してから、アンナプルナにアタックするという連続登山を目指した。
 第1ステージの7200m峰とシシャパンマ南西壁へは、3人のほか著名なカメラマンであるロバート・ボッシュが加わった。7200m峰には悪天候をぬって行動日数5日間で4月29日に登頂した。簡単なルートではなかった。
〈サミット・デイは6600mのC2から頂上の7200mの往復を12時間の往復ビンタラッセルありの、アイスクライミングありの、手袋ぬいでのドライツーリングありの、超ナイフリッジありの、エキサイティングな内容でした。テントに戻ったときには日も暮れかけ、みんな、ヘロッヘロ〉と竹内は書いた。どんな登攀でもユーモアたっぷりに表現する竹内の持味は、他国のクライマーに好かれているようだ。
 そして5月14日、こんどはシシャパンマ南西壁の「変形ダグ・スコットルート」の登攀開始。取り付きから一気に4人がそれぞれにロープなしに、ダブルアックスをまじえながら駆け上がり、3時間弱ですでに核心部のロックバンドに迫ったが、ラルフが落石(落氷)を受け、無念の登攀断念。壁をダブルアックスで下った。

     ■アンナプルナ
 いったんカトマンズに戻った3人は、今度はアンナプルナに挑戦する。BCにヘリで入り、1日レスト。そこからアルパインスタイルで5日かけ5月29日頂上に到達した。7日目にはBCに戻り、6月1日ヘリでカトマンズに戻るという忙しさだ。
 こう書くと簡単に登ったように響くが、相当やばい登攀だったようだ。
〈実際はアルパインスタイルなりの最短4日間を予定して食料も燃料も最低限しか持たずにBCを出たものの体調やルート状況からネバって、ネバっての7日間。サミット・デイはもはや飲まず、食わず、そしてC3、C4は地吹雪で一晩でテントが半分までうずまってしまう状態で眠ることもできずの状態で、「登った」なんてもんではなく、もはやフラフラとなんとか「たどり着いた」というありさま。C2に降りてきたときには私の食料は「サッポロ一番塩ラーメン」が4分の1かけ(スープの素も4分の1)、すでに2回使用した紅茶のティーバックが1つ、マンゴーのドライフルーツが2切れ。ガスは振ると「シャラン、シャラン……」と音がする程度……。そして、バカバカと崩れるアイスフォールに雪崩、クレバス、落石。おまけにルートはラッセルとフロント・ポイント・クライミングが半々という強烈な中途半端〉
 登攀もすさまじかったが、下降は地獄だった。
〈一番ヤバかったのが最後、BCに戻るC1下のアイスフォール。5月末日の標高4000mの低いアイスフォールは目の前で爆破される映画のセットのようにドッカン!ドッカン!と爆音を響かせて絶え間なく崩れ続け、その崩れる間隙をぬって走って通過したり、飛び移ったりと駆け下ってまさに『脱出』。もはや『成功』などという甘美な言葉は香りもしない。 モレーンの安全部に逃れ、草の香り、小さな花の香りのするBC手前までたどり着いたときラルフが『生きてるって悪くないねー』と言ったのがまさに目標の山に登ったことよりも強く感じた私たちの本音だったのでしょう〉

  ■G1も加える
 カトマンズに戻った竹内は、ここでラルフからG1、G2への登攀を誘われる。勤め人の竹内にこれ以上の休みは取れないだろう、と遠慮しながらの提案だった。こうして、石井スポーツ新宿西口店に勤務するサラリーマンである竹内の帰国は、店の責任者から「さらなる休暇をお願いする」ためのものとなった。
 7月はじめ東京に帰った竹内は、わずか5日の滞在で11日にはイスラマバード行きの飛行機に乗っていた。
 7月25日、ラストキャンプのC3から標高差1000mの頂上へ、時には腰までのラッセルをしながら約10時間。ラルフ、ガリンダ、竹内、クライミングスタッフ兼チームドクターのピーターの4人のほかバスク人4人、オランダ人2人。彼らのハイポーター2人さらにパキスタン人クライマー1人の合計13人がG(特)に登頂した。下降中、バスクの一人が滑落死する事故が起き、さすがに意気消沈するが、「HAM計画」自体は、十分な成果を収めた。8月13日帰国。長いヒマラヤの放浪が終わった。
 「ぼくにとって、4月から8月までの登山全体がひとつの登山だった」と、いま竹内は振り返る。そういう挑戦ができたことが嬉しい、とも。
 連続登山をする中で、アメリカのエド・ヴィースチャーズ、イタリアのシモーネ・モロ、ロシアのデニス・ウルブコフなど各国の著名なクライマーとも交流する機会があった。いつも機関車のように先頭を行く「ヒロ」の名は、ヒマラヤで少しずつ知られはじめているようだ。 
 「ラルフという存在が大きいですね。大した男ですよ」と竹内。40歳を越えたばかりのラルフ・デュイモビッツは「アミカル・アルパイン」という会社を組織、公募登山を進める一方で、自分の困難なクライミングを続けている苦労人だ。
 英語なんてまったく……と言いながら竹内は十分ヒマラヤで一流に伍しているようだ。そして、メール通信のかたちをとって竹内流の文章を書く。こんな調子だ。
 アンナプルナでのある日の日記。
〈わぁーぁぁー! 誰だ! オレのクビを締めるのは?!
 突然、クビを締め付けられ息ができず飛び起きる! 誰だ?! コノヤロ!コノヤロ! その手を払いのけようとスリーピングバックのジッパーを開こうとするがジッパーのタブを手探りで探し当てられない!
 息ができない! 思い当たる節が多すぎてクビを締めているヤツの見当がつかない!
 スリーピングバックの口の部分から無理やり手をねじりだして飛び起きる! ・・と頭がテントの天井にめり込んだ! このテントはこんなに天井が低いはずはない!
 テントは雪にすっかり覆い尽くされ天井が低くなるほどにうずまっていたのだ!
 酸欠だ! 窒息だ! 生き埋めだー!
 慌ててテントの入り口のジッパーを引きおろすとブワー!っと雪が吹き込む!
 吹雪の中、顔を外に突き出し、ブハー! ハー! ハー! ヒー!と溺れた金魚のようにパク、パクと酸素を口の中に吸い込む〉
竹内のメール・スタイルのレポートは、いくつものことを考えさせる。ひとつはもうすっかり古びた言葉となったが、“国際化”をまさに彼が実行していること。決して言葉に不自由しないというわけではないのに、チームの欠かせない存在となっている。国際隊への竹内の参加スタイルは、これからの世代のヒマラヤ登山に大きな示唆を与えるものだ。
ふたつめは、「コマツ」の愛称が表現している抜群の体力とテクニック、そして困難を自ら引き受ける前向きなスピリット。
そして最後に竹内の登山を理解し、休暇に比較的寛容な職場の“支援体制”がある。誰でも恵まれる条件ではないが、山登りに真摯に取り組もうとしている青年たちに希望を抱かせる要素だ。
 「いまどきのヒマラヤ」を知るためには、竹内洋岳の登山から、しばらく目が離せない。