2003年12月号
連続講演会「語り継ぐ黎明期の登山……それぞれの山」第1回
山に生きて94年・立山からヒマラヤへ
堀田弥一氏
 
堀田弥一氏
矍鑠とした語りには感嘆!(撮影 高取)
堀田弥一(立教大学OB)主な山歴
1929年 五龍岳、唐松岳(厳冬期五龍岳初登頂)
1930年 唐松岳、不帰、白馬岳縦走(積雪期初縦走)
1930年 鹿島槍ケ岳冬期初登頂
1931年 槍ヶ岳、穂高岳、ジャンダルム冬期初縦走
1936年 ナンダ・コート初登頂(日本人として初のヒマラヤ遠征)
1954年 マナスル第二次登山隊隊長を務める


立山、黒部のスキー登山に「学ぶ」

僕が立教大学の山岳部に入ったのは1927年、昭和2年です。スキーをやるつもりで入ったんです。スキーが相手だから、だんだん冬の山に行くようになった。最初に行った冬山が立山で、その頃の立山は非常にスキーには向いていた。スキー登山の古い記録は、大正12年頃じゃないかと思います。芦峅の連中は、まだスキーができなくて輪かんじきで登っていた。

立山から剣、毛勝、薬師というのは雪の直接ぶつかるところで、日本で積雪が一番多いところです。その立山に、立教山岳部ではまだ誰も行ったことがないからと、気負いこんで入ったんですが、もうすでに他の山岳部の先輩が入っておられた。そこで、3月に目指したのが真川の小舎、そこを中心として薬師、黒部五郎、双六、鷲羽、黒岳だったわけです。

いざ薬師を登り、黒部五郎の小舎へ入ってみると、スキーなんて活用することが少なくて、どんどんアイゼンで歩けるんです。それはなぜかというと、スキーで高い頂上の峰筋に行くと風が雪をふっ飛ばして、固い雪だけが残るからなんです。

冬山というのは、眺望が非常にきくから、好きなところにボンボン行けてうんと稼げるんです。そこでわかったのが、冬山というのはスキー登山じゃなくして、アイゼンとピッケルが主役であるということですね。

雪の山に入って「体で覚える」

黒部へは、バリエーションルートを求めて入るようになったんです。そして、下の廊下を中心として、立山、後立山をと考えたけど、後立山は黒部側からの雪崩が多くて怖いから、誰も入ったことがなかったんです。

だけど、雪崩というものはどこでも、雪の質によっては非常に不規則もあるけれど、一定の法則があるようなことを感じたわけです。表層雪崩というものは、ある程度の急斜面にいくとすぐに落ちます。中腹以下のところでは、4月の中頃からそういう兆候が起きる。じゃあどうやってその雪崩を避けて登山をするかと考えたわけです。新雪が降って1日か2日が過ぎれば表層雪崩はおさまってくる。朝の凍っているうちは雪崩が起きないから、その間に登ってしまう。

それには自分の登高ペースというものを知らなきゃならない。記憶によると、僕らの登高能力というのは、1時間500mだった。1400m位から2900mが針ノ木だから、高度差の1500mを登るには3時間。その1500mを雪崩の危険を避けるためには、5時とか6時に出発すれば、9時までには完全に頂上です。途中休憩する時間を換算しても、1時間450m以上の登高能力があれば、割合に不安を感じないで稜線に到達できるわけです。こういうことが、雪の山に入って、体験的に体で覚えるということなんです。

1931年3月に東谷の川縁で野営して、黒部側から鹿島槍に登った時の1時間の登高は600mでした。'通、1時間の登高が600mというのは相当なもんです。僕らはその600mを登るのに何の苦痛も感じないで行けた。そういう体験を重ねていくことが体で覚えるということなんです。

「ヒマラヤへ」それは「自然に」

黒部から鹿島槍、そして黒部の谷にも入り、道の悪い後立山は夏に計画して信州側から入りました。それがたまたま、五龍や鹿島槍の初登頂になったわけです。

僕の願望は、毛勝から剣の縦走だったが、毛勝から剣は、非常に降雪量が多いところで天気も悪い。同じ北アルプスでも穂高の方がずっと天気がいい。それで僕は穂高縦走をやったわけです。その穂高縦走が、学生時代最後の山登りです。学生時代は12月から1月のひと月、3月から4月のひと月、そしてその合間にも山に行く、それはもう……行きたくなって。そういう生活を送っていた。その後、OBになってから、鹿島の東尾根から八峰のキレットにも行ったけど、僕の本当の経験というものは、学生時代に集中して山に入った3年間の冬山生活なんです。

山登りでもスポーツでも、間を空けてしまうと良くない。続けて熱中している間に、知識も増えるし力もついてくる。山登りというのは、反復してやらないとダ>。練習だけでもダ>。実際に山に入って経験を積み重ねていくことが、いろんなものを、発展して発明する。いくら理屈で聞いても教わっても、自分が体で覚えないと。そういう経験が自然に日本の山からヒマラヤに行くということになった。自然にね。

ヒマラヤに興味を持ったのは、長谷川伝次郎さんの「カシミールの山旅」の講演を聞いたのがきっかけです。長谷川さんは、Survey of Indiaの地図を持っていた。その地図を何度か見せてもらっているうちに、ヒマラヤへ行きたいと考えるようになったんです。

「バウアー隊」から学んだ事

ヒマラヤへ行く時に参考になったのは、バウアー隊の1929年の「ヒマラヤに挑戦、カンチェンジュンガの記録」です。ドイツ語のそれを辻先生が見つけてきて、訳してくださって、一挙一動という感じの講座が始まった。そして、バウアー隊からふたつのことを学んだんです。一つはポーラー・>ソッドという登山方式です。それまでの登山は、5人なり6人なり一緒に行動することが'通だったし、そんなものだと思われていた。しかし、別々の行動をしながら、ひとつの目的を達するという登山方式のあることを知ったんです。

もうひとつは、お金です。僕が考えるには、ヒマラヤへ行くという背景には、国力と、お金がつきまとってくる。バウアーたちは戦争の塹壕の中でヒマラヤへ行こうと語り合った。そして、日本円にして2万円でヒマラヤに行ったんです。それなら、僕らも何とか行けるんじゃないかと。

変わらない「山登りの味」

僕らがナンダ・コートに行った時代は1ドルが2円、インドルピーは1円30銭でした。そして、戦争という国際情勢があり、ネパールもチベットも鎖国をしてた。だから、自分たちの好きな山や好きなものを選ぶことができなかった。戦後、山の装備は大きく変わったけど、登山の本質は変わらないと思うんです。山の登り方にルールはなくて、各自思い思いでやれるわけです。これがいい、これが悪い、という批判もできないと思うんです。僕らの登山は、達成感を満足するというもので、ひとつひとつ解決される達成感がありました。そしてね、周りの未知を自分が知恵を働かせて克服し、解決するってことが楽しかったんです。これは'通の人生観にも通じることではないかと思うんですよ。

僕らの時代は、大正デモクラシーで、相対的にいって非常に自由でいい時代でした。冬山に行くと、誰にも束縛されることも制限されることもなく、自分たちだけで楽しむことができた。そういうことが許された時代だったんです。その代わり不便なことが随分多かった。山登りの味を覚えたのはそんな自由な時代にあったから、そしてまだ未踏峰の山がヒマラヤにもゴロゴロしてたから。

立山からヒマラヤへ

僕らがナンダ・コートに行く時、「ヨーロッパの氷河も知らんでヒマラヤへ行くって」と言われた。しかし違うことがあるんです。ヨーロッパの山は、僕に言わせりゃ岩山です。日本には雪の山がある。ヒマラヤへ行くと、雪山で育った人と雪山の方が通用するんです。あまり岩はないし、雪でかぶさっているし、積雪量は立山よりはるかに少ない。そしてね、見てごらんなさい、冬の黒部を登るとスノーブリッジがあるでしょう。あれが氷河のクレバスと同じことなんです。だから日本の冬山で十分経験することもできる。

今、日本では夏山が主で、冬山の悪いところ、困難なところを経験することがあまりない。登山というのは頭の中で抽象的に考えるんじゃなくて、自分で具体的に計画し体験して、そして体で覚えていく、それが大事じゃないかと思うんです。

(奈良 千佐子)

【10月16日、東京体育館(参加者106名)で行われた、資料・映像委員会主催の講演会記録を元に編集】