2003年9月号
アルプス渇仰
村井葵
 
ヒマラヤで傷ついたからだが回復しはじめた頃、山への憧れは一層強いものになった。脳軟化と眼筋麻痺を克服するためにアルプス通いをはじめた。象徴的な山、マッターホルンに取り憑かれる。高差1200mの岩登りは富士山の駆け登りで力量を計った。目の焦点が定まらないまま岩に取りつき、運良く頂上に立つことができた。3度の試みの末であった。モン・ブランにも登れた。その後、稲門山岳会の推薦会員の長老とアンザイレンし、イタリア側のエルブロンネルからフランスのエギュ・デュ・ミディまでヴァレ・ブランシュの源頭を縦走した。これは圧巻であった。シャモニの大岩峰群にとり囲まれた壷の中を散策するような至福のひとときであった。

「より高きを……」とヒマラヤを志していた頃、アルプスは心の外にあった。でも今は違う。アルプスはアルピニズムの発祥の地であり、心のふるさとでもある。

日本も山国だが、国土の平均標高は400m弱、スイスを中心にしたアルプスは1400mを越える。北海道の半分ほどの小国ながら4000m峰が37座もそそり立っている。彫りがが深くて奥行きがあり、山岳美の全てが集約されている。氷河のひと雫がローヌ川、ドナウ川(イン川)、ライン川の大河になって、それぞれ異なる方向に流れ落ちている。首都ベルンをはじめチューリッヒ、ローザンヌ、クールなど石造りの中世の古都も見応えがある。車窓に展開する紺碧の氷河湖や緑のアルプはいやが上にも旅情をかき立ててくれる。洗練された分明にどっぷり浸かりながら、プリミティブな世界を満喫できる別天地といえよう。街と人と自然が理想的に調和している。

僕は今、日本人にはほとんど逢うことがないーという意味での秘境を彷徨している。

グラン・サンベルナールからフェレの谷に続くお花畑は、生かされながら極楽浄土に遊ぶ天国であった。紀元前にケルト族が住みついたレッチェンタールには妖しい奇祭があった。ローヌ川から入るアニヴィエやエランの谷は古き良き時代のたたずまいがあった。陽光ふり注ぐサン・モリッツの奥の鄙びた寒村ソーリオにも心満たされた。そしてアレッチプラトーで俯瞰する全長25kmの氷河はコンコルディアが臨め、バルトロを彷彿とさせるものがあった。