2003年8月号
ヒマラヤ登頂報告
会報委員会
 8000m峰を対象とした今年度の海外登山基金助成対象2隊の意欲的な登攀が行われました。東京農業大学は環境に配慮しながらエヴェレストとローツェの連続登頂を、明治大学はアンナプルナT峰の難ルート南壁から登頂し、単独クラブ出身者による8000m全14座登頂を目指すという意欲的な活動です。今年のヒマラヤは天候が極端に悪く、両隊とも大変苦労したようですが無事目的を達成しました。12月には東海支部を中心とする冬期ローツェ南壁登山隊が初登攀を目指します。

 今月号は、単独大学やクラブの大きな登山活動をお伝えしましたが、来月号では山岳会初めてのシニア登山隊や最近の公募隊、個人の楽しみの海外登山などをお伝えしようと思っております。
(会報委員会)



東京農業大学エヴェレスト・ローツェ環境登山隊2003報告
長久保 浩司


3月16日、我々環境登山隊一行は、カトマンズから空路ルクラへ出発した。メンバーは、登山隊9人、環境調査隊の学生8人と部長先生1人の計18人。農大にとっては1995年のトゥインズ登山以来の登山隊である。今回は今までと違い、キャラバンルート、およびBC周辺の水質、ゴミやトイレなどの調査や、ハイキャンプのゴミや糞便の回収等、環境に配慮した登山を行おうというものである。

隊荷はシェルパにまかせて、先行させていたのでキャラバンは高所順応に専念でき、非常に助かった。今回は環境調査隊、登山隊ともに学生がいるので、毎日の行動には気を遣った。ゆっくりとしたペース、そして休養をしっかり取ったため、幸い大きく体調を崩す者もなく、全員無事にBCに入ることができた。BCはすでに何隊か入っていたが、それほどの混雑は感じられなかった。しかし、日に日にパーティーが増えていき、またたく間に街になった。

正面には悪名高き「アイスフォール」が見える。ルートは、SPCCやインド・ネパールアーミー隊が中心となり、各隊シェルパ合同による工作で、ロープが伸びていった。最終的に、BCには30隊ほどのチームが集まり、我々はそのうちの1隊にすぎず、我々が意見を挟む余地はなく、ルートが伸びるのをただただ待つだけであった。楽といえば楽なのだが、登山の本質とは少しずれているようにも思う。しかし、これだけ多くの隊がそれぞれ勝手に登れば、それはそれで却って危険である。きっちりルールを決めなければ、800人もの人間が一緒に登ることはできないだろう。逆に自分たちの登山を展開したい人たちは、エヴェレストのノーマルルートには来てはいけない。

我々は基本的に全員同一行動とした。登山活動は順調に進み、4月29日ローツェ・アタック態勢が整った。当初はエヴェレスト、ローツェを同時にアタックして、その後メンバーを入れ替え再度エヴェレスト、ローツェ・アタックという予定であったが、若いメンバーに順応が完全ではない者が何人かいて、とても同時両峰アタックができる状況ではなかった。そこで計画を変更し、まず、ローツェに比較的調子の良い谷川、長久保、広瀬、吉田、中村の5人がアタック。その後いったんBCに下りて休養後全員でエヴェレストへアタックという計画に変更した。アタック前に両峰ともいったんペリチェ(約4200m)まで下りて休養をとった。

ローツェへはC4から雪壁を登り、クーロワールに入る。クーロワールは雪は少なくガレが露出しているところがあり少々登りにくいが、技術的には問題なく5月10日5人全員がローツェ頂上に達することができた。ローツェから見るエヴェレストは圧倒的な高さで立ちはだかっていた。本番はまだ先である。

5月21日、サウスコルのエヴェレストC4へ入った。数日前まで非常に風が強かったため、C4で待機していたパーティーが諦めて続々と下山していた。サウスコルには雪はなく、また以前聞いていたほどのゴミは全くと言っていいほどなかった。調子の良い者は12時前後に到着したが、調子が今ひとつの者は3~4時くらいまでかかってしまった。この到着時間の差がそのままアタックに響いてしまった。

着いてすぐに寝る態勢に入り、その日午後7時には起床し、午後9時半にアタックへ出発した。天気はまあまあである。この時点でネパール側からの登頂者はなく、そのためルートはまだ頂上まで伸びていなかった。各パーティーのシェルパ合同パーティーが先行しルートを伸ばしていった。ヘッドランプの行列はまるで富士山登山のようであった。やがて明るくなり、遠くマカルーが望めた。酸素は、ローツェ登頂者は2本、それ以外の者は3本(そのうちシェルパに1本を背負ってもらう)を毎分2Lで吸った。明るくなるにつれて風が強くなり、南峰を越える頃には、フィックスロープが大きく弧を描くほどにまで強くなっていた。しかし、寒さはさほど感じず、ダウンミトンを途中で普通のオーバーミトンに交換した。

6時50分にまず谷川が登頂、続いて私が頂上に着いた。まだかろうじて周りの景色が見えていた。続いて吉田、学生の山村が着いたが、この頃になると景色は完全にガスで見えなくなっていた。学生の山村が登ったことは我々にとって大きな喜びであった。1時間ほど頂上にいて、下山を始めた。その直後にすれ違いで廣瀬が登頂。この頃風が最も強くなり、その後の残り4人のアタックは中止した。

それでも後から登って来るパーティーは後を絶たない。無事を祈りつつ先を急いだ。酸素を吸っているとはいえ、ペースは上がらない。フラフラになりながらやっとのおもいでC4に到着。頂上を後にしてから6時間以上かかっていた。その日はテントに入ると食事も摂らずに寝てしまった。

こうして、我々のエヴェレストは終わった。しかし、決して大成功とは言えず、多くの課題、反省点を残した。登れた者、登れなかった者それぞれが、考え、反省し、次の登山に繋ぎたいと思います。


明治大学アンナプルナ1峰南壁2003登頂報告
高橋 和弘


明治大学山岳部および炉辺会(OB会)の8000m峰への挑戦は、大塚博美会員による、日本山岳会マナスル登山隊への参加に始まる。1970年、植村直己がエヴェレスト登頂し、炉辺会にとって初めての8000m峰登頂者となる。以来、着々と実績を重ね、97年にはマナスルに8名の大量登頂者を出し、炉辺会員による8000m峰登頂は10座に達した。2001年に明治大学創立120周年、翌02年には山岳部創部80周年を迎えるにあたり「ドリームプロジェクト」と銘打ち、14座完登を目指して、残る4座に登山隊を派遣した。一昨年のガッシャーブルム1・2峰、昨年のローツェと3座すべて全員登頂に成功。残り1座。

アンナプルナ1峰は、14座の中で最も成功率が低く、日本人にとっては登頂者よりも死者の方が多いという歴史が、その危険さを物語っている。我々は、技術的に困難でも、致命的な大雪崩に見舞われる危険の少ないと思われる南壁をルートに選び、ローツェ登山後に偵察を行った。本隊には全員8000m峰のサミッターを揃え、その延べ登頂数は9座、26回に登る強力な隊が編成された。

3月29日、4200mのモレーンにBCを建設。登攀活動は、連日午後の降雪に見舞われ、スノーシャワーを浴びながらのルート工作を強いられた。それでも偵察の効果もあり、順調にルートを延ばし、4月26日に核心部の「フラットアイロン」基部、7150m地点に到達した。しかし、その後大きく天候が崩れ、全隊員がBCに一時撤退、BCでもひと晩に60cmもの積雪に見舞われる。英国隊の記録にあるように、朝は晴れても昼になると雲が湧いてきて、午後には雪が降るパターンが毎日続いた。結局終日雪が降らなかったのはアタック日だけだった。

天気が回復した5月6日から、核心部からのルート工作。C2は3mも埋没していた。丸2日がかりでC2を再建し、12日、フラットアイロンの岩壁を突破。最終キャンプとなるC4は、雪のリッジを切り崩しても、1畳ほどのスペースしかなく、ビバークのような状態で、皆膝を抱えたまま、一睡もせずに16日のアタック日を迎えた。午前3時に出発。7時過ぎに7700mのミニロックバンド上の雪田に出たが、そこからのナイフリッジと雪壁が非常に長く、苦労させられた。幸いこの日だけは好天が続き、午後2時40分に頂上に達した。 シェルパ2人を含む8名の大量登頂かつ無事故という、最高の結果を残すことができた。ルート工作はすべて日本人隊員が行い、荷上げも日本人主導、最終キャンプへの荷上げは日本人のみ、当然ラッセルも自分たちで行うという、本来の登山ができた。しかも、アンナプルナ1峰全体で我々のほかに登山隊はなく、余計なことに気を遣うことなく、山に集中することができた。自分たちの力で登ったと、胸を張れる登山であった。

最後の最後に好天にあたり、幸運に恵まれたが、この幸運は我々が実力で手に入れたものである。抜群の体力と、決して折れない精神力を全隊員が持ち、どんな苦境にも決してあきらめずに頂上を目指したからこそ、神も味方したのだろう。そんな我が部の根底には、学生時代の苦しい合宿がある。明大山岳部はとかく時代遅れを言われるが、地道な活動が生む成果を今回の登山が証明したと言える。80年に及ぶ部の歴史の中で、こうして脈々と明治の伝統を受け継ぎ、タスキがここまでつながったことは大きな成果である。また、14座への挑戦の中で、死者がひとりも出なかったことも、大いに誇れるであろう。この成果を元に、今後はさらに自由な発想で、各自目標を定めて、自分の登山を発展させていければ、と思っている。