2003年7月号
旧師によって擦り込まれた私の南極人生
村山雅美
 
 学者でもない私が、なぜ南極に行くことになったのかということでも話しましょうか。

 現在上映中かどうかわかりませんが、先日、私はシャクルトン(1874〜1922)の映画を見ました。品川プリンスホテル新館6Fの映画館で、200席くらいなのにお客は8人しかいなかった。

 シャクルトンが南極で映画を撮ったのは1915年、それを検証するために今世紀になって、最新装備をつけた超一流登山家3人が最新の登山技術と装備で彼の足跡をたどったのです。昔のフィルムと今のビデオとどこでつないだかわからないくらいよくできた映画でした。その中で、シャクルトンらが山を越えるところがある。リッジからの下りは尻で滑って下りてくるんです。それが今では一流の登山家が苦労して登り下りしている。その違いがどこからくるかといえば、それこそ地球の温暖化ですよ。

 1915年、南極を目指したシャクルトン隊は流氷のために船(エンデュアランス号)を押し潰されてしまう。隊長以下28人は氷の上を歩くよりなかった。このままでは全員が死んでしまうと、ボートでやっとたどり着いたのはエレファント島。シャクルトンは5人を連れて1300`離れたサウス・ジョージア島に向かって漕ぎ出します。島の西岸に着いたシャクルトンは高い峠を越えて捕鯨基地のある東岸へと救援を求めて行く。南極探検史に残る有名な事件ですが、この時、エレファント島に残った隊員の中にはオードリーズという人がいたのです。


■オードリーズ先生のプレゼント

 私は大正の終わりに東京高等師範付属小学校に入った。付属中学校へ入学したのは昭和5(1930)年です。その時の英語の先生がイギリス人で、全部英語だからさっぱり解らない。しかし校庭続きの林の中で英語の歌を歌ったりするような笑いに満ちた授業は楽しみでした。

 先生は生徒たちを順番に自分のアパートへよんでくれるんです。お茶の水、今の順天堂大学病院の敷地が文化アパートといって、当時の日本では初めての本格的なアパートメントでした。そこへ2〜3人ずつよんでくれた。招待するったって酒を飲ませるわけじゃない(笑い)、お茶とお菓子を出してくれるんです。そして必ずおみやげをくださる。私がいただいたのは意味不明のものふたつだったんですが、ひとつは懐中時計の長い針、ひとつは時計のガラスのかけら。それらを箱に入れて紙に包んでプレゼントしてくれたんです。次に会った時に「どういう意味ですか」と聞いたら、先生が言うには「お前は山が好きらしいから、遭難したらこのガラスを反射させて助けを求めろ。もし助けが来なかったら、沢へ下りてこの針で魚を釣れ」と。こう教えてくれた人が、後年わかった南極の勇士オードリーズ隊員だったんです。

 南極から帰ったシャクルトンは、海軍士官として第一次大戦に参加する。オードリーズも同じく海軍に入る。戦争が終わると軍人は要らないから世界中へ派遣されたようですね。

 大戦後日本は空母「鳳翔」を建造しますが、運用の知識が乏しかったため、イギリスからセンビル大佐を団長とする教導団が来日する。オードリーズ少佐もそのメンバーのひとりだったのです。

 あの映画の大筋は、シャクルトンの記録とともにオードリーズの日記によるということだった。几帳面な人で、十何人かの隊員が8か月も越冬して誰ひとりとして餓死はおろか、凍傷にもならなかったのは、彼のストックキーパーの才覚によるものと言いますね。シャクルトンは本の中でオードリーズのことをけちん坊だと書いていますが、けちん坊だからこそ、乏しい食糧を長くもたせ、隊員の志気を保つことができたんです。

 考えてみると、中学生になったばかりの時、オードリーズ先生に出会ったことで、知らず知らずに私の脳みそに南極が擦り込まれたのでしょうね。今でもすごい人に擦り込まれたと思います。


■オードリーズとモリス
 ここで、なぜオードリーズ先生に巡り会えたのか推測してみましょう。

 当時、高等師範の英語教授にC・J・モリス先生がいました。モリス? 知る人ぞ知る1922年、ブルースのエヴェレスト隊員です。なぜ高師に来たかは不明ですが、その付属中学には、全国に先駆けて山岳部を作った中学というので、「エヴェレストテント」と称するヒマラヤで使ったという天幕を寄贈してくださいました。私たちは「部宝」として扱い、子ども心にもヒマラヤの空気に触れる気持で、夏、冬の虫干しを兼ねたキャンプを楽しみにしていました。キャンプの夜、先輩の長谷川伝次郎の『ヒマラヤ写真図鑑』を見たり『アルパインジャーナル』を上級生から読み聞かせられたりしたものです。

 そんな中学にはもってこいの先生だと、モリスが旧友のオードリーズを推薦されたと信じています。


■運が良かった海軍時代

 高校・大学と山に明け暮れていた間に、第二次世界大戦が勃発。卒業繰り上げという異例の事態に直面することになった。このままでは陸軍に召集されるが、海軍なら少しはメシがうまいんじゃないかと思って海軍を希望した。 

 成績のいいのは大歓迎、少々悪くても陸軍に持っていかれるよりはと、新しく海軍予備学生制度を作って、そこへ入れてくれた。4つ種目があって、陸戦隊がひとつ、空襲を防ぐ防空がふたつめ、3番目は機雷・魚雷、最後に通信です。これにもふたつあって、内地で敵の通信を傍受して敵情を探る仕事と、僕が選んだ軍艦に乗ってトンツーとやる係とあった。

 戦艦「長門」航空母艦「瑞鶴」の乗組にもなりましたが、幸運にも「長門」「瑞鶴」という名艦に乗りながら一度も戦闘に参加することなく、戦争後半は内地勤務で敗戦となりました。

 毎日戦況不利の暗号電報に取り組みながら、暗号書の照合と称して、連合艦隊の旗艦「武蔵」行の用件をつくり、仲間と冷房がきいた食堂でビールを飲んだものです。戦艦「武蔵」の前楼マストのラッタルの昇り降りに奥又白のバットレスの登攀を思い出していました。


■マナスルから南極へ

 昭和20年、戦争が終わると、横浜の商社に身を置きました。そのうちに1952年秋、日本山岳会がマナスル踏査隊を送り出すことになって、私もその準備を手伝った。その年の暮、彼らが持ち帰ったマナスル氷河の写真を見て、ヒマラヤが突然近づいてきました。

 1953年、第一次マナスル登山隊の先発隊として日本を発ちました。この時は7750bで敗退。翌54年には山麓のサマで住民との間に騒動が起きて、これも失敗。1955年秋に事件は解決したとはいうが、現場で確認するために小原勝郎、橋本誠二さんと行き、56年の第3次の時には降りました。

 1955年の暮にマナスルから帰った僕は、西堀先生によばれて学士会館へ行った。ヒマラヤ登山のキャンプで開いていた地球観測年の南極観測に、日本も名乗りをあげたと言うんです。勧進元の学術会議は日本山岳会に諮問し、隊長が永田武先生で西堀栄三郎先生が設営担当の副隊長に決まっていたのですが、僕は何も知らなかった。西堀さんから「俺が副隊長やからお前来てくれ」と言われて「隊長は誰ですか」と聞いたら「永田はんいうてエライ人や」と言うだけ。「飛んで火に入る夏の虫や」と、うまいことまるめられて南極にいくことになりました。

 何で僕に話が来たのか。後から聞いたところでは、学者の間に学閥のほかに岳閥があって、設営を取り仕切る山屋をどこにするかもめていたようです。京大の今西錦司さん、北大の木原均さん、東大の今井田研二郎さんが集まって、設営要員に「どんな手持ちがあるかいな」とカードを出し合ったんだそうです。座長の今西さんが持札を見て「南極はやっぱり海軍さんの仕事や」と言って陸軍勢の多かった京都大学はあっさり抜けてしまった。僕が海軍だったため、「お前が西堀を助けるために渡辺兵力さんと一緒にやれ」ということになったんです。

 行くにあたって、当時僕は会社員だったし、マナスルに3年続けて行った後ろめたさもあります。それを言うと西堀さんは「まかしとき」と言って、文部省にかけあって僕に横浜国立大学に職を見つけてくれた。つまり南極への指定席ができたわけです。

 日本の南極探検では、白瀬中尉の前例がある。しかしその時は全く個人的な事業として扱われて、日本政府は何の支援もしなかった。大隈重信が後援会長になって民間で送り出したのです。南極に「大和雪原」の宣言はしましたが、白瀬中尉は莫大な負債を背負って、不幸な晩年を送られました。以上が僕の南極人生の始まりです。


■最後に一言

 僕に南極を擦り込んでくれたオードリーズ先生は、温泉と雪の日本にほれ込んだのでしょう、付属に3年、旧制の弘前・山形高校で温泉と雪を、小田原生まれの日本人の奥様と楽しんでいる間に世間はきな臭くなりました。俄然、ジョンブル魂が騒ぎ、旧友の香港提督に空軍か陸戦隊への召集を懇願したが、「君の心意気には感服するが、63歳では無理だ、対戦に備えて語学将校の養成を頼むよ」と、心ならずも熱愛した日本をあとに奥様、お嬢様ともどもニュージーランドに渡ったのは満州事変の頃でした。

 それから半世紀たって、僕はニュージーランド南極倶楽部に招かれました。
「僕はあのオードリーズの教え子です」と自己紹介すると、居並ぶ南極男女は歓声をあげました。彼の国はシャクルトンの勇士として、日本の白瀬探検隊に対するものとは格段の尊敬を捧げるお国柄です。倶楽部は早速ご遺族に連絡をとってくれ、一人娘と住む未亡人を訪ねることになりました。

「50年前の付属の生徒です。先生の南極から帰ったばかりです」と挨拶もそこそこに奥様の記憶は明晰、羽織袴の新郎に寄り添う結婚写真に始まる思い出は尽きませんでした。先生のアイルランド人特有のウィットとユーモアに溢れた人柄は終生変わらなかったようです。 「お庭にあなたのために世界地図の花壇をつくってくださったの覚えてる?」と語り合う先生のご遺族でした。

(4月7日緑爽会講演記録をもとに補筆)