2003年5月号
初登頂から50年 
最高峰エヴェレストへの思い
松浦輝夫
 毎年のことだが3月から5月にかけては、決まってエヴェレストのことを思い出す。季節の移り変わりによってではなく、「暦」が、33年前の私たちの登山開始時期になるとエヴェレストなのである。あの山での日々は、それだけ私にとって強烈である。ウェスタンクームのアイスフォール、ローツェフェースの急斜面、サウスコルのたたずまい。それらは、一緒に登った仲間たちへの感謝の気持とともに、忘れられるはずがない。

松浦隊員
日本人初登頂を目指す松浦隊員
 会報『山』の編集者からイギリス隊の初登頂から50年になるので何か書かないかといわれ、改めて何冊かの本を引っ張り出した。ヒラリーの『わがエヴェレスト』や私の参加したJACの『1970年エベレスト登山隊報告書』、植村直己の『エベレストを越えて』などである。(注)


■南峰に立って見る頂上

 とりわけ注意して読み返したのは南峰から頂上につながる最後の痩せた尾根の部分だった。東南稜から頂上を目指す全ての登山者にとって、肉体的にも精神的にも、そしてもちろん技術的にも、ここが核心である。南峰は8760m。そこに立って初めて、異様な雪庇に縁取られた頂稜の全容が明らかになる。最終的に天候や時間を計り、進退の決断を求められるのも、他ならぬ南峰である。

 南峰に初めて立ち、頂上に続くルートを間近に見たのは1953年、イギリス隊のエヴァンスとボーディロンである。が、疲れと残り少ない酸素、尾根の手強さが撤退を決断させる。第二次攻撃隊のヒラリーとテンジンはその3日後の5月29日、午前9時には南峰に達する。「私は強い関心をもって問題の尾根を眺めた。エヴァンスとボーディロンが、あれほど暗い見透しを立てたあの尾根だ。はじめ、一目見ると、すごく印象的で、全く恐ろしい眺めだった。しかし眺めていると私の恐怖心はいくらか薄らいできた。可能性はあると思えるのだ」。危険極まりない頂稜に登路を見出そうとするヒラリーから、初登攀者だけが味わう恐怖と戦慄、それを克服しようとする強い意思、こころの昂ぶりを読み取るのである。2人は頂上を目指して前進する。

アイスフォール
アイスフォール
 その17年後の5月11日午前8時、同じ場所に立った私たちは、そこに、イギリス隊の写真で見たとおりのものを見る。私はキャラバン中はもちろんアイスフォールでルート作りをしている時も、彼らの写真を見てこの難関をイメージしていたのだ。さらに北側の小さなテラスでユニオンジャックのマークがついた酸素ボンベを見つけ、17年前に引き戻された。中身を使い切ってヒラリーらが置いていったものに違いない。私たちはヒラリーに導かれて登っているのだった。


■地球上の最高点で

 南峰を越えて植村と私は快調に進んだ。酸素補給器の具合もよく、天候の心配もない。アタック日和である。下では大塚博美登攀隊長をはじめ私たち2人を押し上げた多くの隊員が、力強いサポートで支えてくれている。最終キャンプを出てから3時間、9時過ぎに頂上に立った。植村と私は互いにしっかりと抱き合い、息の詰まるほど背中をたたきあった。それは17年前、テンジンとヒラリーが交わしたのと同じ喜びの表現だった。本当にうれしい時、だれもが同じようなことをするものだ。

 山頂でのヒラリーは、酸素補給器の助けも借りず世界最高峰に挑んだ開拓者たちの偉業を想起する。そして、この山で命を絶ったマロリーとアーヴィンの痕跡がないかと見回す。一方、信心深いテンジンはビスケットやチョコレートを供物として供える。2人にとって頂上滞在はわずか15分だった。

 私たちは、このエヴェレスト登山で亡くなった成田潔思隊員の写真や遺品を雪の中に埋め、そのうえに日の丸とネパールの国旗をひろげた。中国隊が登ったノースコルからのルートを自分なりにチェックもしてみた。

 植村は「(自分を)ラストランナーとして送ってくれたみんなへの感謝と登頂の感激を一生忘れないだろう」と書き残している。頂上での1時間はあっという間にすぎた。

 私たちにまたとないチャンスを与えてくれた晴天は翌日も続き、平林克敏隊員とチョタレ(サーダー)が第二次登頂に向かう。平林隊員も南峰からの眺めを「エヴェレストへの最後の稜線は実に美しい」と書き、強まった風のなか喜びの山頂に立った。

エヴェレスト
エヴェレスト


■山に登るということ

 イギリス隊がエヴェレスト登頂を果たしたのは私が大学1年の時である。エリザベス女王の戴冠式と同時に伝えられた登頂のニュースに私も興奮した。「ヒマラヤ・オリンピック」の時代が始まっていた。当時はイギリスやスイス、フランス、ドイツ、イタリアなどヨーロッパ勢が中心だが、やがてアメリカ、インドなども競争に加わってくる。登頂には国の威信もかかっていた。

 世界の登山界の動きのなかでJACはターゲットを8000m峰に絞る。マナスル登山は1953年から56年にかけて行われ、登頂に成功する。

 そんななか私たちの山岳部の周辺には、厳しい訓練を経て、より高く、より困難を求める気風が充ちていた。多くの若者がヒマラヤに行こうという夢を持ち続けた。

 大学を出て10年後の1965年、早稲田大学登山隊は未踏のローツェ・シャール(8383m)を目指した。隊員の転落事故があり、その後体勢を立て直して登攀を再開したのだが、あとわずかというところで引き返した。われわれの失敗のあとオーストリア隊が成功したことでローツェ・シャールは視界から消えた。そして私には深い悔いが残った。あの時あの山で、自分はぎりぎりまでベストを尽くしたか、初めて体験する高さとの闘いに負けて逃げ出しただけではないかという思いである。

    マナスルやヒマルチュリのあとJACには課題として世界の最高峰エヴェレストが残っていた。日本人はだれも登っていなかったからどのルートから登ってもおかしくなかったが、ピークハントの時代は去り世界の趨勢はバリエーションルートの時代に入っていた。当然JACも、より困難な「南壁」を主目標とし、併せてクラシックルートの東南稜も登る計画を発表して隊員を募集した。私は募集に応じ、選ばれた。ローツェ・シャールの悔いがエヴェレストのバネになった。出発までの日々、厳しいトレーニングを自分に課した。35歳、山登りを大きな生き甲斐と感じ、また、そう信じて登ったエヴェレストだった。(残念ながら小西政継をリーダーとする南壁からの登頂はならなかった)

 その後、JACだけでなく大学や地域、社会人のグループが、ヒマラヤを舞台に意欲的で多様な活躍を展開しているが、1980年、中国側からのJACチョモランマ登山隊あたりを境に、高峰登山の流れは、総力戦的チーム登山から別の方向に向かっていった観がある。私自身は1981年、早稲田のK2西壁隊で隊長を務めたあと本格的な登山から遠ざかった。主な理由は身体がついていけなくなったからである。屋久島に移り住んで10年、陶芸とランづくりに励み、2年前、大阪に帰ってきて昔の仲間と会う機会が増えてきたこの頃である。


■いま時代は大きく変わったが

 離れているうちに人も時代も大きく変わった。ヒマラヤの高峰登山にいま、明らかに、別の時代が訪れている。登る人もスタイルも20〜30年前では想像もつかなかった変わりようだ。技術が向上し、装備、器材がよくなり、スピードが格段に上がった。無酸素、単独は珍しくない(もしもの時、ひとりは大変だと思うけど)。グループで出かけても、皆が同じ目標を持ったり足並みを揃えているとは限らない(なにしろ個人が中心でなければすまない世の中だ)。

 営業的公募登山がはやっていて、テントと酸素とステップが、お金と引き替えに提供される(旅行社がやっている海外観光ツアーとあまり変わらない便利さ)。5月の登頂日和、エヴェレストではヒラリー・ステップに順番待ちの列ができるという(マッターホルンの難所でもよくあることだから仕方ないか)。しかしそれらの、私としては好きになれない登山に敢えて異議を唱えても仕方あるまい。

 せいぜい言えるのは、お互い助け合い、補い合い、信頼し、責任を分かち合った昔ふうのチーム登山も、面白くて充実感があって、人生が豊かになり、思い出せば楽しいよということくらいか。


(注)『わがエヴェレスト』=松方三郎 島田巽訳、1956年、朝日新聞社刊
『エベレストを越えて』=1982年、文藝春秋刊