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連続講演会 「語り継ぐ日本山岳会の歴史」

第1回 山田二郎氏(第16代会長)

「山は人との出会い」


       日 時 平成21年4月4日(土) 午後3時から
       会 場 日本山岳会104号室


 4月4日、連続講演会を開催。この講演会は山岳会の歴史を担ってこられた諸先輩のお話を収録するのが目的である。第1回の山田二郎氏は、登山界のまさに黄金時代を過ごしヒマラヤに5回の遠征、1989年から93年までの二期4年を会長として務められた。この時、未踏峰であったナムチャバルワへの登頂が果たされた。また戦前、戦中、戦後の登山も経験されている。特にそのあたりのお話にスポットを当てて報告する。


兄と登った山から慶應山岳部へ講演中の山田二郎名誉会員

 私は兄の影響を受け、山登りを始めた。登山の先駆者であった兄に連れられて山に行く。そしてだんだんと山に魅せられていった。昭和18年頃だったと思うが、軍人であった父を部下が訪ねてきて「閣下、この厳しい戦争の時代に山登りなどという不埒なことをやっている者がおるけれども、閣下はどうお考えですか」と……。父はまさか息子が山へ行っているとも言えず、「まあ、山にもいろいろあるんじゃないか」と言って話を濁していた。

 母校、慶應の山岳部の指導精神は、全体主義と重装主義、デモクラティックだった。全体主義とデモクラティックは矛盾したように思うかもしれないが、個人主義に対する全体主義。組織の一員だということが個人の考えを規制してくるのではないかというような考えかただと思う。その慶應には山岳界の重鎮が名を連ねていて、槇有恒、三田幸夫さんというのは遠くから仰ぎ見るような存在だった。強く影響を受けたのは谷口現吉、加藤喜一郎さん。加藤さんとは大変気が合ったし、岩登りは2人とも得意で、彼と組んで岩登りをするのは大変気持ちがよかった。
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戦中、戦後の山と人

 戦中、私は学徒動員で戦車隊へ配属された。復員し家に戻り、麹町の谷口さんのところを訪ねた。その時、なぜだかわからないが軍刀を吊って行った。谷口さんが「二郎が軍刀を下げてやって来た」とびっくりしてた。その谷口さんが「戦争もこういうことになってしまい、自分は後輩に対してどういうことができるかといえば、やはり山登りを通じて立派な若者を育てるということではないかと思う」と話していたことを思い出す。

 終戦後、諸大学の山岳部の先輩方が弱体化した山岳部を指導しようと、指導会や講習会を行なった。なかでもユニークで印象的だったのが、堀田弥一さんのピッケル講習会。堀田さんが言うには、転ぶ時はうつむけにではなく前向きに転ぶのだから、一番早く止まるには持っているピッケルを逆さにして、小脇に抱えてピッケルが下になるようにして止めるという....。ずいぶん面白い説だなあと、ただただ驚いた。

 1953年のマナスル登山は、京都大学の功績が一番だったと思う。京大だけでも行けたと思うが、全日本的な組織で行くのがいいということで、京大がマナスルの計画を丸ごと山岳会に持ち込んだ。そして山岳会の中にヒマラヤ委員会ができて、その中から隊長、隊員などの構成を決め、三田さんが最初の隊長に就任した。


ナムチャバルワ登頂の意義

 ナムチャバルワをはじめて知ったのは1940年版の『ヒマラヤン・ジャーナル』だった。本の扉を開いたらそこにナムチャバルワの写真が載っていて、なぜか強い印象を受けた。そして将来ヒマラヤへ行けるようになったらこの山へ登ろうと思った。学徒動員で戦車に乗っている時も、第一次マナスルの時もナムチャバルワのことが頭にあった。そして1991年、ついにチャンスに恵まれた。

 それまでの日本山岳会は、大学山岳部のOBが主体だった。それが1984年のカンチェンジュンガの縦走あたりから、社会人登山家の優秀な人も一緒になって登るようになった。私は狭量なところがあったが、彼らは技術も高く強い。その人たちが隊員として、中国と一緒になって登れたというところに、非常に意味があった。

 1991年の第一次隊では雪崩で隊員を1人失った。その後、二次隊を出したが、最後までハラハラの連続だった。アタック態勢ができたところでしばらく悪天候が続く。上から吹雪の中を撤収して下りてくる様子がBCから見える。大丈夫かな、と思いながら見ていたが、彼らはとても強かった。

 ナムチャバルワは学生時代から憧れていた山だったので、登頂の知らせを受けた時は感慨深いものがあった。北京での登頂祝賀会で中国の関係者に「あなた方がなかなかナムチャバルワの登山許可をくれないものだから、俺はこんな爺さんになってしまった。本当だったら一緒に上に行きたかった。でもとにかく、皆が登って無事に帰ってよかった」そんな話をした。先鋭的登山、大遠征隊はあの頃で最後だったように思う。

 そういう意味では1953年にエベレストは登られてしまったが、8000の未踏峰もまだ残っていたし、みな希望に燃えて山と対峙していた。その時代を過ごせたのはラッキーだった。
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未来へのメッセージ

 今、会が抱えている高齢化問題についてはあまり気にはしていない。なぜなら山登りというのは年齢に応じてそれぞれ楽しみ方があるから。ただ、高齢者だけでは会の存続が困難だ。今後の課題は、若い人たちに魅力があるような山岳会にしていくこと。かなり難しいだろうが....。

 公益法人化については、基本は山へしっかり登るということだろう。公益法人になっていろいろな講習をするといっても、へっぽこ教師ではしようがない。ちゃんと山登りの基本がわかった人たちを育てていかないといけない。アルパインクラブの基本を忠実に守っていってほしい。

 私は山が好きだが、それ以上に山を通じた仲間との出会いや付き合いのできたことが非常によかった。慶應の歓迎式で、小泉塾長が体育会の新入生に次のような話をされた。「学校の勉強をすることはもちろんだが、体育会の習練を通じて生涯の友達を得るというのも大きな意味がある」。このひと言を忠実に守ってきた。私にとっての山とは「人との出会い」だ。


講演会後の四方山話から

 講演後のフリートークでは、「第一次マナスル隊の失敗は食料にあったのでは……」との質問が向けられた。これに対し「その通りです。食料担当の私は、どんなものがヒマラヤの食事にいいのかまったくわからなかった。そこで学生の頃に読んだ外国の登山隊の報告書にあった〈食料について〉を参考にした。例えばヒマラヤでは酸素が少ないから、食料を消化するのに酸素の消費量が少ない食料メニューの一覧が載っている....。

 それをほとんど丸写しで持って行ったものだから、日本人の口に合わない。たちまち評判が悪くなる。こんなものが食えるかという感じで、1週間と持たない....。そこでびっくりしたのは、加藤泰安。彼は蒙古の遠征などの経験から、キャンプにヤクの肉でメンチボールを作って上げてくれた。これが大変おいしかった。私が最初に持って行った食料はことごとく不評。だから、第一次の失敗は実に私の責任です」と、当時の裏話に触れ会場の笑いを誘う場面もあった。

 そのほか、氏の多彩な趣味、山スキー、モーターボート、カヤック、地図の模型作りなどにも触れた。「山とは人との出会い」という氏の言葉を裏づけるような、和気藹々とした講演会となった。
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(会報「山」 2009年5月号から 文=奈良千佐子)

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