村山雅美 1918年生まれ 旧制松本高校・東京帝国大学卒。第一次から第二次マナスル登山隊に参加。第一次南極観測隊員として参加、以来1968年から69年には南極大陸大旅行、南極点に到達。
「穂高からマナスルへ、そして南極へ」
南極への気持を
オードリーズ先生は、私が東京高師付属中学へ入学した時(1930年)の先生だ。彼は、落下傘を利用することを南極に教えに来た。日本が気に入り、我々の先生になった。着任挨拶で 「私は日本の雪と温泉に魅せられ、日本に来ました」と、中学1年生にもわかる英語で説明してくれた。先生に出会って50年目にあたる年、南極点に行った。その時、先生を良く知るニュージーランドの南極クラブの人たちが歓迎会を開いてくれた。
中曽根康弘元総理と出会う
観測船「富士」を造ろうという時、中曽根さんらを引っ張り出し、一緒に南極へ行った。中曽根さんは南極に行ったばかりに、すっかり南極の虜になり、予算を取ってくれた。帰りの飛行機では、私の隣にいた相当な年齢の人に 「そこの赤いパーカーを取ってくれ」と頼まれ、取って良く見ると″ドゥーリットル″と書いてある。「日本の初空襲のドゥーリットルさんでは」と聞くと、「そうだ」とのこと。当時、私は横須賀の海兵団の予備学生で、びっしり訓練を受けていた。戦艦「春日」 の上空をマストに触れんばかりに低く飛んで来る飛行機があった。防空団も気づいたと見え、機関砲ぐらいのものをボンボンと撃ちだし、初めて空襲だとわかったものだった。
旧制高校の選択とマナスル参加
私は山とスキーのできる学校として松本高校を選んだ。1年のうち、1か月単位ぐらいで山に行ける環境にあったからだ。1953年、今西錦司さんのもとに、第1次隊でマナスルヘ。54年の第2次隊にも参加させていただいた。先遣隊としてシェルパの手配で、ダージリンの町を歩いていると、ひときわ目立つ年食ったシェルパがいた。「こいつに一杯飲ませ、喋らせたら面白いぞ」と一席を設けた。思った通りで 「ブルースからロングスタッフぐらいは隊長としてまあまあだけれども、シプトンは頑固だし、エルマンはけちん坊だ」と、知ることができた。
マナスルで南極観測を知る
マナスルのキャンプで、1956〜57年に南極観測が始まることを知った。南極に行くには公務員でなければならないという。私は貿易の仕事をしていたが、文部省に知恵者の課長がおられ調査した挙句、「横浜に1人空席がある。教官にしてやろう。横浜国立大学学長の所へ挨拶に行け」と。面会に出向き、「東京の人間には"くにたち″としか読めませんよ」と学長に言ったら怒られたが、昼飯をご馳走になった。籍は講師と決まった。そして、第1次、第2次南極観測に行かせていただいた。
我が旧制高校時代の生活
俗にいう、上級生と下級生の間でしごきはなかった。昭和11〜14年の頃だ。家庭からの仕送りが1か月に30円から40円の時代のこと。しかし、部の流儀は「車が使える所は全部車やタクシーを使え」というもの。島々では早稲田や慶応の連中が荷物を担いでよくしごかれていた。これを追い越して行ったことを覚えている。こんなことがどうしてできたかというと、松本の本町にあった米田屋さんの女将の采配があったから。だから我々は、30円や40円の生活ながら山登りができた。「山で使うタクシー代、石油代、食料費の3つは全部米田屋のツケでよろしい。そして卒業する時までに必ず払う」との約束があった。寛容な市民の目が、旧制高校に対してあったのではないかと思う。 (田畑真一 編集)
【平成17年4月22日、東京体育館 (参加者120名) で行われた、資料映像委員会主催の講演会記録を元に編集】
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