●対象:黒部/上ノ廊下横断〜薬師岳中央稜 (水晶小屋で中退)
●期間:12/30〜1/7
●メンバー:木下、安藤、榎並、相原 (日本山岳会青年部)


 学生の新4年生のとき、真砂尾根から登り、雲の平を横断、薬師沢出合で上の廊下を渡り、神岡新道を下りるという山行を行った。部誌、『ルームノート』には、こう書いている。
「既成ルートに囚われないで自ら美しいラインを引く、私のやりたい山登りを、苦しい部員構成の中で出来た事に大いに満足している。」振りかえってみても、学生時代の山行の中でも、一・二を争そう、満足な山であった。
 と同時に
「進むにつれ正面の薬師がどんどんでかくなり、東面の雪稜が目に付く。薬師東面はそのアプローチの長さ故、記録の少ない未開のエリアであり、大学山岳部の春山として絶好の目標になるように思う。」
と書き、記録の最後で
「我々のように、“渡っただけ”ではなく、もっと大きな事の出来る、大学山岳部向けの山域である。素晴らしい横断行を期待したい」
と結んだ。
そのときは、学生でなければこの山域に来れないと思って、後進の横断行を期待するというエラそうな書き方をしたが、それからも薬師の東面への未練を残していた。
 それから2年半たった、昨年10月、このHPの掲示板で木下さんから、今回の計画を誘われた。年末年始が10連休で、それに付き合ってくれるパートナー自体、そのときはいなかったから、迷うことなく参加の意思を示した。ただ実際、計画を考え出すと、ほんとに10日で行けるのか不安になり、11月中はなかなかちゃんとした計画の話まで、詰める気持ちになれずにいた。仕事が忙しく中途半端に過ごしてた11月が終わり、12月に入ると、すっかり寒くなった季節に後押しされるように、ようやく準備をやりだした。懸案の休みも、忘年会のドサクサにまぎれて切り出し、1/9,10の2日間の年休をもらった。そして、久しぶりに緊張しながらの出発を迎えた。


30日 (快晴)
 
大町駅で、安藤さんと合流。5月の八つ峰で安藤さんの作った雪洞に、翌日泊まったとか、ニアミスはあるものの、実はこれが初対面。29日になって野田君が外せない仕事が突然入って、メンバーから外れたりもしたし、よく考えれば、ひどい寄せ集めパーティーだ。
 七倉7:40発。明日から天気が崩れるのが分かってるのに、入山日は快晴。なんとも恨めしい。みんな歩くのが早く、プレッシャーを掛けられてるようでつい早足で歩くと、あとで「実は俺も、えぐかった」と皆、口をそろえる。困ったもんだが、進みは早く湯俣に11:50-12:00。
 ここからの湯俣尾根(竹村新道)はラッセルと思ったが、なんとトレース有。スノーシューを使ったトレースに、噂とおり、サンナビキ同人が来ていることを知った(ちょうど直前の岳人に、彼らによるスノーシュー紹介記事が載ってた)。どうも荷物の重さからか、みなバテ気味だが、ごまかしながら進み湯俣岳直下で幕(16:20)


31日 (曇のち雪)
 気合を入れ5:30の早出。
 南真砂岳(8:45-9:00)を越える頃から、雪の中に入るが風は弱く、特に問題ではない。真砂岳を夏道通しにトラバースし東沢乗越12:20。水晶小屋への登りで調子が悪く、前と間が空いた。テントに入り、熱を測ると37℃だったので、それが影響したようだ。水晶小屋13:30着。
 強い風のため、雪がちゃんとついておらず、防風ブロックを切るのは苦労しそうだ。そこで、小屋から1m程離れ、小屋を風除けにするようにテントを張る。張り綱は石で固定した。
 このとき、風は南北に走る水晶岳〜鷲羽岳の稜線に、直角に西から吹くという誤解をしていた。だから、テントを小屋からみて東側に張ったので、対策はOKと思ってしまった。実際のその後の悪天では、風は北西方向、ときには尾根と平行に北寄りから吹き、これがこのあとテントを潰される失敗の原因となった。しかし、このときは疲れてて、深く考えられなかった。


1月1日 (風雪)
 
21世紀、最初の日。といって、何が変わるわけではない。
 風雪とは言え、赤牛岳を越え樹林に入るまで半日の行程なので、行けないわけではなかったろう。このとき動いていれば、山行は成功していた。が、翌日、冬型が一時的に緩むとの予報があったので、停滞を決めてしまった。個人的にも、前夜の熱が完全に直った感じはしなかったので、まあこの休みでしっかり直そうぐらいにしか考えられなかった。そもそも12/31に、もう少し先まで進んでおくべきだったとの思いもある。こうした、ちょっとした先へ進むことへの躊躇が、結局、明暗を分けてしまう。


2日 (風雪)
 強い吹雪。この日は明らかに行動不能。
 風が強すぎ、横になって眠るのは危険と思われ、4人が4隅で体育座りし、夜を越すことにする。夕方に風上側の場所に変わったので、バタバタと背を揺らされ、首が痛い。途中、3時間起きくらいに火をつけ暖を取る。最初のうちは、ずっと起きていたが、最後は体育座りのまま、うつらうつらしてた。


3日 (風雪)
 
明るくなってから、特に風が強くなる。今回のゴアライトのテントは、自分は初めて使うものなので、どれくらいの風まで耐えれるか、わからないという不安感がある。
 まだ大丈夫と思っていたが、木下・安藤の両氏が、冬季小屋を開けにテントを出ることとなった。2人が出てから、中の重さが軽くなったからか、テントの揺れがさらに激しくなる。揺れを緩衝すべくテント内で体を伸ばすが、ついに絶えられずポールが折れた。
 冬季小屋は、扉の隙間から雪が吹きこみ、4畳ほどのスペースに隙間なく雪が詰まっており、引っ掛かった中の雪で扉が動かない状態であった。その扉を、安藤さんの十得ナイフのミニ鋸で、切って突破口を開き、中の雪を取り除いたという。この作業に約3時間。
 完了後、榎並・相原もテントを出て、ポールだけ抜き、荷物を入れたままのテントを抱えて、小屋に入れた。小屋の中で、荷を整理した後、再設営。テントを立てると、余りのスペースはほとんどなくなるが、強風の外は別世界のようだ。まあ、これで救われたわけだが、冬季小屋「破壊」については、通常でない行動であり、「事故」と同じ非常事態に陥ったと考え、反省せねばなるまい。
 12/31の設営の時点で、「稜線上ではちゃんと防風ブロックを切る」という基本を怠ったのが、何よりの原因である。たしかに小屋周辺は風が強く、地面が露出していたが、小屋から一段東側に下りた斜面を整地すれば、それなりのが作れたように思う。
 学生山岳部時代は、絶対明朝まで晴れるのが分かっている5月の山でも、稜線であれば必ずブロックを切ったものだ。強いメンバーと組むことで、そういう基本をすっとばして構わない気になったのかもしれない。だけど、こういう山で求められるのは、じりじりとでも着実に行程を延ばすこと(この意味で12/31,1/1の行動には悔いが残る)などの基本の積み重ねなのである。反省!!。


4日 (風雪)
 
わずかな戸の隙間からの吹きこみで、半日もすれば、だいぶ雪がたまる。テントの横にはわずかなスペースしかないので、テントに倒れこまないように、厳しい体勢での除雪となる。といっても、外で泊まってた時に比べれば、なんのことはない。
 唯一つらいのは、トイレに出るときぐらい。木下さんは、トイレに出て危うく、風に飛ばされそうになり、さらにここでは書けないような災難を負っていた。
 そういえば、大便をした場所にはスパゲティの袋が落ちていたという。最初は、我々の持っていた棒ラーメンかと思ったが、違うらしい。スパゲティーは持ってきてないので、いったいなぜ??、しばしこの話で盛り上がる。


5日 (風雪)
 
いい加減、停滞にも飽きてきた。風のない小屋の中では、切迫感はなく、ぼけーっと時間をつぶすのみ。今年はどの山に行こうか、なんて話をしていた。


6日 (風雪のち快晴)
 
大陸からちぎれた高気圧が揚子江方面に張りだし、いよいよ天候回復の予報。気合を入れて、久々にちゃんと早い時間に起きるが、朝方はあいからずの天気。8時過ぎからようやく回復の兆し。気象通報を取ったり、小屋の除雪に手間取ったりして、結局、11:15発。
 21世紀の最初の5日を過ごした、思い出の小屋を後にする。風が強く、体もなまっているので慎重に東沢乗越へと下りる。水晶岳や、北鎌・硫黄尾根は雪がしっかりついて引き締まって見えて、実に荘厳だ。悪天の後の、この景色は冬山の醍醐味だ。
 真砂岳までも相変わらずの強風。ときおり、立ち止まりながら歩く。このとき、私は風上側の左頬に顔面凍傷を負い、会社に行くのに恥ずかしい思いをする羽目になった。
 ただこの行動で、安藤さん、木下さんはもっと悲惨なことになった。安藤さんは、プラ靴の他の3人と違い、1重の皮靴(ケイランドのブルカノ8000)であったことと、靴ひもを締めすぎたことで、木下さんは靴のサイズが小さかったことで、足に凍傷を負ってしまった。特に安藤さんは1週間、入院し、一部足を切断という大変なことになってしまった。本人はけろっとした様子なのですが、けっこう心配しました。
 真砂岳をトラバースし、竹村新道に入ると途端に風がなくなる。後で追いついてわかったことだが、薬師岳東南3稜の冬季初登を狙ったものの、野口五郎の小屋で閉じ込められて敗退したぶなの会の3人パーティーによるトレースがあり、楽チンだ。
 南真砂岳の下のコルでは携帯も入り、安藤氏は心配しているであろう山岳会に電話していた。
 無風快晴。さっきまでの風と、5日間閉じ込められたのが嘘のようで、一気に気が抜けてしまう。
 湯俣岳の登りのコルで、用を足し、皆から遅れて、一人で歩いてると、敗退の悔しさがぐっと込み上げてきた。1/1に突っ込めてれば、薬師中央稜の核心の下で1/5まで閉じ込められた後、この同じ瞬間に、薬師の頂上に立ってたんだろうな。残りはあと2日、ぎりぎりの日数だが、いちお年休は取ってある。帰れるかどうかビクビクするまで、追い詰められた末に、それを跳ね除ける、かっこいい山が出来たはずだ。体力・技術・気力が備わっていて、かつちゃんと休みが取れる冬山シーズンなんて、実はそう何回もない。「山は逃げない」なんて大嘘。1年に1回の冬山は、逃げていった。。かといって、1/1は風邪気味でやる気なかったし、1/3の小屋壊しの局面でもテントで待ってただけの自分が、今になってあれこれ思っても、しょうがないんだよなあ、悲しい。
 湯俣岳に16:20、快晴の青空がしだいに夕暮れ色に変わる中、そんな風にいろんなことを考えていた。
 途中、ぶなの会のパーティーがちょうどテントを立てているとこに追いつく。すっかり日は沈んだが、月明かりの下、敗退の悔しさをぶつけるように、ラッセル。
 湯俣手前で、トップの私が夏道の道型を外し、30分以上のロスをし、皆に恨まれるが、湯俣に19:50-20:00。
 名無小屋に21:20。備え付けのストーブは不調でつかないが、畳部屋で思いきりガスをたき、余った食糧を食いまくった。


7日 (曇)
のんびり起きて、9:15発。荷物は軽くなってるはずなのに、とぼとぼと歩くので行きの1.5倍くらい時間がかかったのだろうか、12:50七倉下山。


 帰ったら農大隊下山せずの報が入ったきた。
 1シーズン前の春に、
「そのアプローチの長さ故、記録の少ない未開のエリアであり、大学山岳部の春山として絶好の目標になるように思う」
「我々のように、“渡っただけ”ではなく、もっと大きな事の出来る、大学山岳部向けの山域である。素晴らしい横断行を期待したい」
と書いた薬師東面で、
ブナ立尾根〜薬師東南第2稜〜神岡新道という素晴らしい横断行を成功させた山岳部。それが、蓮華岳丸石尾根〜北葛岳〜船窪岳〜ブナ立て尾根という、すぐ近くの場所で、3名全員行方不明。ショックで、呆然とするしかなかった。ヘリ等の捜索にも手掛かりがなく、あとは雪解けを待ってとなるが、なにより早期発見を祈りたい。このこともあって、この山はずっと忘れらない山になるだろう。是非、また狙いたい。