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8年目を迎えたマッキンリー観測登山
3年連続センサーが無事

プロジェクトリーダー・登山隊長 大蔵喜福

1980から90年代にかけて、登山の潮流は、その突先にヒマラヤ巨峰の厳冬期登攀をかかげ、単独、無酸素など、より激しく純粋な冒険が多くの話題を呼んだ。その陰で、名だたる世界の高山に幾多のクライマーの命が消えた。

 そのアクシデントの原因は、主に悪天候による気象遭難として伝えられたが、真相が解明された事故は数少ない。(社)日本山岳会(以下JACと記す)に関わる近年の遭難としては、82年冬季エベレストでの加藤保男氏ら2名、84年冬、烈風のデナリ(マッキンリー)に消えた植村直己氏、同じく89年の山田昇氏ら3名が記憶に新しいところだ。

気象遭難原因追及へ

 90年2月、JAC科学委員会の中に、気象遭難原因究明の気運が高まり、冬期高所山岳における気象遭難の問題について、研究会やシンポジウムなどが開催され評価を受けた。私は以前より気象遭難防止のためと高所登山戦略に役立つ、なまの気象データ(とくに風)の収集に興味を覚えていたので、科学委員になると同時に、その研究活動の一環として気象観測登山を行うプロジェクトチームのプランを練り、JAC科学委員会傘下の研究活動として位置付けてもらった。

 観測対象の山は、機器設置に現実的で条件がよい、アラスカ・マッキンリー山を選んだ。この山は植村、山田氏等の遭難とも関連し、JACと関わりも深い。ハロルドーソロモン会員と共に、その年の春から実現に向かって行動を起した。

 アラスカの国立公園局との交渉や資金繰り、隊員の確保など90、91、92年と苦労したが、93年より95年の3年間は、JAC海外登山基金の援助金をいただくことができ、たいへん助かり感謝している。基金の補助で弾みがついて、今年で第8次を数えることができた。

経過概略

 第1次JACマッキンリー気象観測登山隊は、90年6月マッキンリー西稜の5715メートル地点に定点観測機器を設置。以来毎年同時期に登山隊を派遣し、機器点検保守、センサーと記録装置の回収・据え替えを実践してきている。初年度は話題性が高く、マスコミなどにスポンサーになっていただいたが、第2次隊は資金難に陥り、回収するだけの目的の個人登山になってしまった。
しかも、現場に着いてみると、センサー支柱が倒壊していて、すべての努力が水の泡となった。奈落の底に引き込まれる思いだったが、成し遂げようという意欲が逆に湧いてきた。

 挫折する醜態はさらしたくないと一念発起し、資金を集め第3次隊を組織、観測機器再建に意欲的に挑んだ。この年から隊は、本格的にJAC学生部・青年部のバックアップで研究意義と高所登山を学ぶ機会として、学生の参加を促してもらうことになり非常に有り難かった。また多くの委員会、並びに会員から支援をいただき感激した。

 よって隊の目的も観測だけにとどまらず、マッキンリー全員登頂も並列に目標に掲げ、総合的な登山の訓練を行う登山隊にした。その上、環境先進国アメリカ合衆国の国立公園環境行政の在り方と実際も経験できるという、多くの意義を持ったプロジェクトになった。蛇足ながら、この8年間、隊長の私を含め、登山隊員延べ50名全員が登頂を果たし、観測機器の回収他を成し遂げ、誇り高き登山として自負している。現役学生の参加は29名にのぼる。

データ収集の苦労

 データの収集に関して第4次までは、物理的な動きに頼らざるを得ないセンサーが、激烈な自然条件に耐えることができず(とくに風力・風向センサー)、毎年破損の憂き目にあってきた。悔しさの中で壊れたセンサーを回収し、帰国後は原因を追究、改良を重ねる連続だった。高所極寒の劣悪な気象条件下では、気温センサー等を除き、年間無人観測を保証する機器はない。常に開発しながらというハンディがついて回ることになった。年間通して風のデータが取れるようになったのは、やっとのこと第5次回収のデータからで、今年で3度目になる。いま安堵の気持ちでいっぱいだ。

本年度の報告

 第8次登山隊は、私の個人的登山(チョモランマ遠征)が、諸事情で遅延したため、隊長として会の皆さんに多大な迷惑をかけた。5月25日私がアタックのためノース・コル(7028メートル・C1)に待機していたところ、村井龍一元常務理事より衛星電話を通じて連絡が入った。その内容はアラスカからのもので、「レンジャーは大蔵が一緒でなければ、登山はまかりならぬといってきている。あなたが、確実に行けるかどうかにすべてかかっている」中止になれば学生を悲しませるし、延ばせば試験期間にかかる。「何としても行きます。送り出してください」と返事をした。宮下秀樹前副会長にも駄日を押され[遅れて参加する隊長を3350メートルデポキャンブで、本隊が待つ]という内容で打ち合わせは終わった。

 以後、絹川祥夫理事ほかの奔走のお陰で、本年6月8日、隊は無事アラスカに渡り、12日より登山活動に入った。カトマンズを6月11日に発った私は、バンコックを経由し12日成田着、東京に1日とどまって14日にアンカレッジ着。15日には氷河の上という強行軍だったが、予定通り17日本隊と合流できた。

 以後順調に登山活動ははかどる。24日に烈風と寒気の中、無事機器交換作業を終え、翌25日全員登頂と一気呵成に事を済ませた。

 今回は天候に恵まれたこともあるが、最短の15日で登山活動すべてが終了した。参加した学生隊員の体力、技術、行動思考が高いレベルにあったことがその理由である。とくに隊員の高度順応が、問題なくできたことが大きい。前段階での荷揚げ回数を増すことで、無理なく成果を上げるげることができた。さらにザイルパーティー、テント生活、すべてにおいて隊員の意志統一ができ、学生としては素晴らしく優秀なメンバーだったといえる。

 例年になく温暖で安定した天候であったことも短期に終了した理由に数えられるが、その分下部氷河のクレバス(の発達)には、相当難儀したことを付け加える。スキーを使用していてヒドンクレバスに落ちるという状況もしばしば起こり、氷河歩行の怖さを改めて感じた。
 隊員は法政4年・板谷耕介、同3年・木島由晶、慶応3年・榎並祐史、上智3年・太田幸介、早稲田3年・蛭田弥希君の5名に大野毅会員と私を加え総勢7名。

データ分析について

 90年より97年までのデータは現在、このプロジェクト参加者と多方面の専門家を頼りに順次、多角的に分析され、徐々に役立つデータに変えられつつある。それぞれにはボランティアでお願いしているので、本当に感謝している。なお、マッキンリーの国立公園局へ送る毎年のレポートは、非常に喜ばれている。

 第5次までの報告は「山岳87年」と「山岳89年」に、第6次も含めた中間報告書は昨年(96年)春に科学委員会より小冊子として発行した。 ゆえに詳細は省くが、実測データ中の最低外気温度は、95年12月のマイナス59.4度C。データ補正および高度補正をすると頂上の最低気温はマイナス70度Cを超える。

 最大風速は三杯型センサーでは90年8月の63メートル/秒、95年8月の63.89メートル/秒、プロペラ型センサーでは94年7月の82.5メートル/秒、などかある。どれも前後は丸一日から数日といったスパンで強風が吹き荒れている状況だ。82.5メートル/秒は時速300キロという途方もない烈風である。風向は北あるいは西からが多い。

 最低気圧は95年の2月に約430ヘクトパスカルを記録した。夏との気圧差を単純にメートルで現すと、冬の頂上は約900メートルも高く、なんと7000メートルをゆうに越える勘定だ。

 夏の湿度は60パーセント以上、冬の最低が45パーセントとなっているが、冬平均で55パーセントというのは、想像を絶している。

 観測地点平均外気温のデータからは、いま問題になっている地球温暖化、とくに森林に悪影響を及ぼす凍土の溶解というアラスカの温暖化を裏付ける推移がみられる。年ごとに少しずつ上昇しているのだ。

 本年度回収した96年度のデータは、昨年12月の末に何らかの理由(静電気など外部よりの信号)でデータロガ(記録コンピュータ)が自動的に停止していて、半年分しかとれなかったのがつくづく残念だ。

登山と自然保護

 さて、アラスカの国立公園局レンジャーの登山指導(環境行政)の在り方を少し記す。
 レンジャー・ステーションでは、登山隊が到着するとまず、入山登録料ひとり150ドルの徴収があり、届け出チェックを済ますと、ビデオ講習を含んだブリーフィングを行う。事前の注意として氷河歩行などの技術的なこととともに、自然保護・保全に関して、念を押される。ゴミ、し尿はテイクアウトを義務付けられる。

 実際の、マッキンリー登山者は受益者負担を踏まえた処理を実践し、概ね残すのは足跡だけという見事さだ。わが国とは状況が違うとはいえ見習うべき内容といえる。

プロジェクトの今後と展望

 ちなみにマッキンリーのプロジェクトは、科学委員会の予算には全く関わらない傘下のプロジェクトというスタンスを取っている。相応な資金が要り、委員会予算内では到底不可能であるからだ。基本的に個人負担、資金調達も個人の責任という、クラブ活動としての真の姿(ボランティア精神)が、この活動をここまで継続できた力であったと確信している。

 ただ、これが会としてのプロジェクトに昇格していたら、もっと違う展開になっただろうと思うとやや残念だ。声を大にして理事会に訴えなかったことが悔やまれる。

 このプロジェクトはあと2年、第10回で一区切りのつもりである。その後は、地元のしかるべき機関(大学の研究機関か気象観測所など)に継いでもらいたいと考えている。内容をさらに進め、地球規模で活用できる大気サンプリング等までひろげ、汚染や温暖化などの実態を観測できればと夢を抱いている。

 来年以降、残り2回の登山隊に関しては、いままで男性ばかりだったから、一度は男女混成か女性隊を組みたいものだと思っている。

 なお、気象観測が一応終了しても、多くを研鑽できるマッキンリー登山は、今後学生部海外登山として指導部等に引き継いでもらい、学生の合宿として残したいものだ。横のつながりを人切にした合宿形態は、若々しいJACの基盤をつくる何らかのヒントにもなるのではないかとも考える。

JAC登山活動の在り方

 会本来の目的は登山であると明言しても、その指向はどんな形態のどんな考えを持った登山なのか、いまひとつ確たるものがない。
 JACの登山は、会員のみならず広く登山界に目を向けた、志の高い(理由)ものでなくてはならない。だから、ただ攀るだけの登山はJACの登山ではないと考える。

 個人的にはより困難を求める強烈な冒険登山が最高と疑わないが、ハイレベルの登攀、冒険的登山は組織だってやるものとは次元が別だ。

 学術あるいは研鑽ある活動と認められる登山、それに関連した活動を組織がバックアップするという「山を科学する姿勢」が最も重要であると思っている。「冒険とは知的興味を身体で具現するもの」という言葉があるが、我が会のとるべき道は、これを実践することにある。

 JACには登山界全体の、健全な発達に寄与する頭脳と経験、そして力がある。そのほかの活動も、もっと外へ、広く未来に向け、志の高い、価値ある、そんな行動こそが使命ではないか。期待されるJACとして、その未来に問われているのは、組織と組織論で疲弊したロビーストの山岳会ではないはずだ。「登山界の良質の核」である。

 気負わず怯まず、この姿勢を崩さず山登りを続けていきたいものだ。

山631-1997/12


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