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   ミニ水力発電

上高地山岳研究所「ミニ発電装置」
試運転で900Wの発電に成功 
ミニ水力発電実行委員会常任委員 坂本正智
会報「山」657(2000年2月号)

上高地山岳研究所「ミニ発電装置」
 
試運転で900Wの発電に成功

ミニ水力発電実行委員会常任委員 坂本正智

 平成11年11月22日午後1時、小倉茂暉実行委員長(副会長)が一升瓶の栓を抜いて、装置周辺にお神酒を振りかける。  流量・調整ハンドルがゆっくりと回されるとノズルから勢いよく水が吹き出し、次第に激しくなってゆく。
側面を内部の水車が見えるように高圧の透明プラスチックで特注されたケーシング内で、水の勢いを受けた水車が回り始める。

 ミニ水力発電プロジェクト実行委貝、山研委員、共同研究の神奈川工科大学、そして蓄電や配電盤関係で協力する日本電池鰍ネど関係者16名が期待で見守る中、林エンジニアリング鰍フ技帥がハンドルを回して流量を増やし、回転数をあげてゆく。 やがてデジタル表示板に900ワット発電の数字が点灯し、関係者からいっせいに歓声と拍手が沸き起つた。

 長い歳月をかけて温めつづけてきた私たちの「夢」、自然エネルギー有効利用の実験施設「ミニ水力発電装置」は、上高地の冬と競争するようにして完成し、ついに試運転に成功した。

 試運転終了後、直ちに約500メートルの送水管、装置内部、放水管の水抜きを行い、発電小屋は板とシートで覆って雪囲いを済ませる。翌23日、今度は山研の給排水設備の水抜きと掃除などの閉所支度と雪囲いを終えて、居往者が野生猿の群れにとって代わった上高地を全員で後にした。

 5ヵ月後、遅い春の訪れる4月上旬より再び一部の工事、装置の調整などを行い、5月のゴールデンウィーク明けには1キロワット発電を目標に本稼動の予定である。

 実験のための発電施設構想、具体的計画案、関係諸官庁への折衝と許認可申請、そして工事着工から試運転まで、長い年月をかけた計画だったが、その最初から関わっていた者の一人として、実現までの経過と今後のモデルケースとしての実験などについて、少し述べてみようと思う。

発電施設構想

 平成3年(1991)10月に会員でもある神奈川工科大学の鳥居亮名誉教授、森武昭教授(現水力発電常任実行委員)と一緒に大分県の林社長(林エンジニアリング梶jが閉所準備中の山研に来られ、そのときに善六沢の飲料水取人口付近まで上がって、山研における水力発電の可能性について調査された。

 神奈川工科大学の自然エネルギー利用研究グループで山小崖の風力、太陽光、水力の利用・普及に努めておられた烏居教授は、以前から山研の水力発電の可能性を話し、「山小屋のモデルとなる発電装置の実現」を私たち委員に説いておられた。林社長はその後も数回山研に来られ、森教授と私の三人で、善六沢の取水口予定地から山研までの落差をハンドレベルで測定したが、高低差は50メートルあり、十分に発電可能であるとの結論であった。

 老朽化した山研は平成3年(1991)10月末をもって取り壊し、翌年から新築工事が始まった。
平成5年春から新山研はオープン、村本潤次郎会長名で平成8年に計画案を環境庁に提出した。またこの趣旨に賛同して電気事業連合会の東京電力梶A中部電力梶Aそれに日本原子力発電鰍フ三社より総額500万円の寄付がすでに寄せられており、発電施設構想は現実の計画として動き始めてきた。

許認可の申請

 小規模水力発電設備の普及を阻害していた電気事業法が平成7年に改正され、それまでは大型と同様の技術基準、検査などを必要とされていたものが、発電出力10キロワット未満の発電装置は技術的進歩および保安の自己責任原則の徹底を背景に一般電気工作物となり、これによって発電設備の設置が容易となった。

 平成10年からは頻繁に環境庁の上高地担当官に計画についての具体的内容を説明し、11年3月になって改めて「モデルケースとしてのミニ水力発電装置」の許可申請書を提出した。 同時に、上高地は「特別名勝」および「特別天然記念物」であるために、安曇村教育委員会を通じて文化庁へも「現状変更」の許可を申請した。

 新しく作る発電小屋は松本営林署より貸付を受けている山研の敷地を少し追加寄付する予定で、この件についてはすでに平成10年に両者で了解済みであった。 ところが11年3月に組織が再編されて名称も中信森林管理署となり、先の了解済みであった事項すべてが白紙に戻るという結果となってしまった。

 発電小屋は山研裏の東寄りを当初は予定していたが、追加貸付は不可能となって、反対の西寄りに変更を余儀なくされてしまった。 おまけに貸付地境界が明確でなく、測量しなおして境界の復元をしなければ森林管理署の新築許可が出ない。 こんな中で、4月になって河川法の問題が持ち上がった。 文化庁への申請書が長野県自然保護課に回った際「河川法の問題は?」と照会があった。

 実行委員会がこの計画を進めてゆくに当たり、河川法問題は検討事項となっていた。 しかし予定している善六沢は梓川の枝沢であり、取水を予定している場所はその沢に入ってくる小さな流れ− つまり梓川の枝沢の枝沢で、山研が長い問生活用水として利用しているところでもある。 意識の中に既得権のようなものもあって、枝沢のほんの少しの水を引き、発電に利用した水も一部を山研の生活用水として使用するほかは、すべて梓川に放水することもあり、この問題はすでにクリアされているとの認識であった。

 このような実行委員会の認識だけでは、県側も申請書を出すわけにもいかず、きちんとした確認を建設省からとって欲しいとのことであった。

 4月中旬、長野市の北陸地方建設局千曲川工事事務所にある占用調整課を訪ね、日本山岳会が計画している発電装置を説明し、河川利用についての指導を仰いだ。担当官は「今回は河川法の説明だけで……」と前置きして、
@水力発電に関しては、その規模の大小を問わず同一とみなす。
A善六沢は準用河川(普通河川)であるが、発電として利用する場合は一級河川の扱いとし、建設大臣の特定水利使用の許可を受けねばならない。
B準用河川を一級河川指定とするためには、まずその河川を管轄する市町村から都道府県へ要望し、調書を作成して地方建設局に提出する。
C「一級河川指定等の調査」は河川局長通知で毎年六月にあるが、それに問に合わせるようにBを行うには、事前の調査などもあって今の時期からでは遅すぎる。来年度(平成12年)になってしまうであろう。
D仮に今年度の「指定等の調査」に問に合ったとしても、「決定」をする河川審議会は年一回、年度末に開かれるために、平成11年3月でないと結果が判明しない。 したがって現行法規上では、この計画が許可されるとしても、平成12年4月の新年度となる。

 何てことだ!順調にいっても1年の遅れとなってしまう。ここまでやっと積み重ねてきたものがガラガラと音を立てて崩れてゆく感じがして、しばらくは茫然自失状態であった。

 そんな気配を察したらしく、「日本山岳会の趣旨は充分に理解できたので、私なりに何かよい方法があるか調べてみる」との言葉に、藁をも掴む思いであった。ちなみに今までにこの種の相談・申請はなかったように記憶している、とも話していた。

 とにかく大変なことになってしまい、文化庁、環境庁への申請書が途中で止まったままになった。送水管施設や発電小屋新築工事などは、それまでの経過から、遅くとも6月着工、8月発電開始のスケジュールで、資材、工事業者などの手配もしていた。この段階で2年先に延びるということは、最悪、計画の中止も考えられる。 建設省の見解を聞いた実行委員会は暗いムードになっていった。

 関係省庁に日参するようにして解決の糸口を探っていた6月中旬、北陸地方建設局としての見解が出た。
普通河川といえども、新規の水利使用が実行されると下流の維持流量や既得水利に悪影響を及ぼし、水利秩序を乱す恐れがあるので、今計画のような「普通河川において発電が計画された場合、法河川に指定して特定水利使用として扱う」のが原則であるが、今回は短期間の実験施設あり、取水量も小規模、取水口から放水口までの間に他の水利使用者がいない。 またダムなどの設置も予定に無く、取水による河川環境への影響も少ない。 以上の理由で、今回のケースに限り安曇村の普通河川の管理に関する条例(安曇村公共物管理条例)に基づいて許可する。というものであった。ついに裁断難関突破である。

 この文書を小倉実行委員長と二人で千曲川工事事務所で受け取り、その足で松本に向かい、安曇村役場振興課を訪ねて申請についてのお願いをした。そして7月末に、待ちに待つた「河川使用許可」が安曇村より届いた。文化庁、環境庁への申請書の差し換えも終え、梓川への放水に利用する遊歩道の排水溝拡張工事の認可も4月に長野県生活環境部より受けており、中信森林管理署を除いて、「ミニ水力発電装置」設置へのすべての届出は終了し、後はその許可待ちとなった。

 9月に入って続けて許可が届き、予定になかった貸付敷地境界線復元、発電小屋予定地変更による共同テレビアンテナと埋設ケープルの移動を残して、いよいよ計画は最終段階へと入った。

 復元の測量は林野弘済会に依頼し、その日程を決めた矢先の9月15日、釜トンネル上高地側出口付近での崩壊事故で、またまた測量も月末までずれ込み、「国有林野貸付使用」「国有林野貸付使用地内工事施工承認」「国有保安林内立竹伐採等」の三通の申請書類をそろえて森林管理署に提出できたのは、10月も1週間以上過ぎてからであった。そしてこの計画のために必要な最後の許可書加届いたのは、上高地に初雪の訪れもあろうという10月25日。もう後のないところまで来てしまっていた。

工事着工から試運転成功まで

 何度も着工予定の変更で、工事従事者の手配もできないでいた松本土建鰍口説き、やっと発電小屋の工事が始まったのは11月4日である。
工機が入って基礎工事がスタートしたのを見ていると、やっとこれで長い歳月をかけて温めてきた「夢」が実現するのかと、工事に立ち会った実行委員も感無量であった。

 小規模水力発電装置は、アメリカ、カナダ製が価格も手ごろではあるが、メンテナンスなどの関係もあって林エンジニアリング叶サの出力1キロワットの横軸単流単射ペルトン水車に決定し、装置一式は山研に納入された。これは当会の自然エネルギー有効利用のモデルケースという趣旨を理解してくれた特別価格であった。

発電装置(ペルトン水車)

発電システムの表示板
 

 発電機制御盤や蓄電池、見学者用のシステム表示板などの電気関係は日本電池鰍ェ引き受けてくれた。また発電小屋は、山研新築の業者である松本土建部にお願いした。

 善六沢支流の取水口から小屋までの送水管は、3インチ黒のポリパイプを使用して約500メートル。学生部の若い諸君の力を借りて敷設した。発電後の毎秒5リットルの水は5インチの塩ビパイプで15メートルを、途中で山研の生活用水に使用するために分岐させて受水層に引き、後は沢から治山遊歩道を横切って梓川に放水する。

 これら発電小屋以外の工事は、すべて実行委員、学生部、神奈川工科大学の手で行われた。その材料費、他に境界の測量、テレビ共同アンテナ移動、交通費などを含む諸経費と、この発電装置に関しての費用は、総額で1千万円に近い額となった。

 工事途中で一度降雪もあったが工事に支障もなく、小春日和の暖かい毎日で、予定通りの19日に発電小屋は完成した。白銀に輝く穂高連峰を眺めながら20日に実行委員、神奈川工科大学、日本電池などの業者が山研に入り、発電装置の据え付け、取水□から小屋までの通水、そして試運転といよいよ最後の工事を行う。

 そして22日、予想を大きく上回る900ワット発電に成功したのであった。

 実行委員それぞれが別に自分の仕事をもっており、その合間を見ての打ち合わせ、工事と、肉体的にも経済的にも大変な労力を必要とした1年間であった。試運転の成功は、それらすべてを一瞬のうちに忘れさせるすばらしいものだった、拍手と歓声の中で「本当にご苦労さまでした」と一人一人にお礼を言いたかった。

 無理を承知で引き受けてくれた業者の皆さんは無論のこと、関係する諸官庁も何かと相談に乗ってくれた。
しかし今回の一連の許認可申請において、一方では規制緩和を唱えながら、まだ規則、法律という厚い壁が立ち塞がっていることは否めない事実である。個人的には何かと助言いただいた好意的な担当者にしても、やはりその壁を越えることの難しさを、私は実感した。 一本化し、その結論が短時間で出るような行政のあり方を望むのは、やはり無理なのであろうか。

発電本稼動、そして実験へ

 今年5月中旬をめどに春早くから上高地入りし、送水管などの追加工事や発電装置の調整を行う。本稼動後は施設を一般公開し、委員および山研管理人が見学者へのインタープリターとして、自然エネルギー有効利用や環境保全などの啓蒙を行うことにしたい。 作られた電力は当面は山研資料室の一部の照明と生ごみ処理に使用し、データを収集したいと考えている。将来的には、し尿処理システムなども視野に入れた実験を計画している。

 今後の各種実験、データの収集方法などについては現在検討中であるが、逐次「会報」、「山岳」誌上で報告していきたい。

 新しい年2000年は、上高地山岳研究所が名実ともに「山岳研究所」となる、そのスタートの年である。

山657(2000年2月号)


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