科学委員会
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スキーの科学と思い出

西堀栄三郎


昭和56年3月17日(火)夜ルームにおける) 
西堀会長を囲む座験会・報告  
           科学研究委員会  


 私が雪の魅力に惹かれスキーを始めたのは中学三年の時で、スキーはレルヒ少佐のものをまねて作っていた高田市山善で求め、シールの代りに手拭をまきつけて、関温泉に出かけた。当時は勿論一本杖リリーエンフェルト式の、ズダルスキー術であった。その後コールフィールドの“How to Ski”が出、二本杖となった。原理は低速回転に適する舵作用で、テレマ−クやシュテムに励み、今西錦司君にも教えた。

 当時滑走面には縦溝が入っていなくて直滑降も不安定だったので、大工さんに四角い縦溝を入れてもらった所、やっと安定した思い出がある。二本杖は自分で作り、リングも藤を輸にして作った。その際石付だけは金具屋に頼んだが、後には節のある竹を自分で旋盤でとがらせて作った。美津濃でスキー道具展があり、今西君や、後に「最新スキー術」(三省堂)を書いた高橋健治君等と一緒に見に出かけた。その時未完成シールと称するアザラシの皮が飾られていた。早速これを買って来てスキーに付けようとしたが、ワックスを手でのばして貼りつける技法が判らず、結局電報でヨーロッパに問い合わせて解決した。当時は幅のせまいシールしかなかった。

 私はイタヤ材を用いスキー板もいろんなものを作ってみた。先端の曲りの大きいものや、板の反りの大きいもの、長さの異なるもの等々である。
スキーの長さはキックターン一つを考えても股下の長さが基準になる。立って手を伸ばした長さが適当というのは欧米人の場合で、日本人には背丈位が最適であろう。このような短スキーを使用するとよく回転もでき、急にスキーが上手になったように感じた。その頃からアーノルド・ランやシュナイダーの高速回転の技術が流行って来た。これらは横すべりが回転のきっかけになることを、フィロソフィカルマガジンの物理論文で知ったが、技術をマスターするには至らなかった。

 私達は勿論ゲレンデよりも山に登る道具としてのスキーに徹していた。上記「短スキー」で山まわりキックターンを始めたのも私達であった。これだとキックターン毎に1メートルはかせげるので、明大の故馬場忠三郎君などと神奈山に同行した時にも大いに引離した記憶がある。妙高や神奈山にスキー登頂したのは私達が最初であった。

 一体日本の山の雪は湿っていて重く、またブッシュも多い。このため上から見て中央がくぴれているスキー板を作ったが、これは大いに偉力を発揮した。この他スキーの締具やスキー靴、アイゼン、リュック等も皆自作して研究した。ただし変形しないよう鉄板を靴の底に入れたスキー靴は木靴のようで使用に耐えなかった。一方滑走面に塗ったセルペット被膜は功を奏した

 当時北大や一高、東大の中に上手な人がいたが、関西ではレルヒ直伝の小林達也氏や二中校長の中山再次郎氏が私どもの先輩で、短スキーは角倉太郎君とともに伊吹、氷ノ山などで研究し、スキー道具の面では関東より進んでいた。
また私達は山で訓練した結果、何時でも雪の山中に雪洞を掘ってビバークでき、吹雪でも休まず行動できた。

 スキーとは直接関係ないが、雪のことに一言ふれておきたい。 南極のように零下30度にも冷え乾燥して来ると、雪は全く固らず砂と同じで、スキーは全く滑らない。このような雪は粘着力も0で、積雪に対する脅威は少ないが、日本の雪のように湿ったものになると物凄い凝集力が働く。これが雪崩の脅威にもつながっていると考えられる。雪の破壊力が増大するのは積雪がつながって凝集力が働いて強く引っパる場合で、これらについて当委員会で今後検討して頂きたい。ヒマラヤや南極では昇華も盛んに行われ、これがセラックスやヒマラヤ襞の原因になっているのではないかと考えている。

  参加者(順不同敬称略)折井健一、高遠宏、小山内正夫、遠藤孝夫、渡辺正臣、松家晋、梅野淑子、伊藤博夫、高橋詢、斎藤桂、小林碧、渡辺兵力、河野幾雄、野口末延、松丸秀夫、七里直、広羽清、野田憲一郎、原謙一、沢井政信、神谷光昭、大森弘一郎、中村純二 他9名

             (文責・中村純二)

山431 (1981/5月号)


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