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チョー・オユー日記
 

8月6日(火) 成田→バンコク 足立道代

 今日と昨日の境がいつだったのかわからないうちに今日という日がついにやってきた。刻々と迫りくる出発日と、出発までに終えなければならない事務処理と、終らなければ出発できないパッキングとが一度にやってくるプレッシャーに押しつぶされそうになりながらなんとか家をでてきた。

 出かける前はいつもこうである。旅行会社に勤務していたころも、いつも半べそをかきながらパッキングしていたなと成長しない自分に苦笑してしまう。今日は父が車で空港まで送ってくれたので大量の荷物も運ぶことができた。感謝。隊員と合流し5名で50kgオーバーの荷物をなんとかチェックインしたが、手荷物も半端でない。見送りの方々に、夜逃げにいくみたいだねとわらわれながらやっと出国し、それでも1日目無事にバンコクまでたどりつきました。

 われわれチョーオユー隊の珍道中がいよいよはじまります!見送りに来てくださった方、ご協力をいただいた方、温かい言葉をかけてくださったかた、本当にありがとうございます。元気に行ってきます。


8月7日(水) バンコク→カトマンズ 晴れ 柏 澄子

 バンコクから2時間半あまりのフライトで、カトマンズにやってきた。雨季のさなか、ヒマラヤの白き峰みねは、ぶ厚い雲に閉ざされていて望むことはできなかった。飛行機が徐々に高度を下げ、マハバラート山脈を越えると、カトマンズ盆地だ。煉瓦色の建物がマッチ箱のように見下ろせる。

 少し前まで頻繁に通い、たくさんの思い出や友人、知人のある国だが、最後にカトマンズを発ったとき、次に来ることが想像できなかった。当分来ることはないだろう、と思っていた。機窓から懐かしい風景を眺めながら、あのとき感じた寂しさを思い起こしていた。

 さて、カトマンズに着いてからの私たちは、大忙しだった。
ホテルにチェックインをしてすぐに、エリザべス=ホーリー氏の取材を受けた。前回会ったときと同様、長年愛用の水色のビートルに乗ってやってきた。30数年間カトマンズに住み、ヒマラヤ登山について書いている彼女は、徹底して、ヒマラヤの登山者の情報を収集しているように感じる。
その後、シーガルトラベル社のスタッフたちとゴサインクンドのトレッキングの打ち合せや、地図などの買い物をした。

 夜は、トレッキングのサーダーをしていただく、ラクパ=テンジンさんと会食をした。まもなくすると、隊員の大窪三恵さんが到着した。彼女は、関西国際空港から直行便でやってきたのだ。これで、日本人隊員6人が勢揃いだ。

 個人的なことだが、"ライブでものを書く"ということに興味がある。そのことにおいても、この「チョーオユー日記」は、私にとって楽しみなことだ。旅の空で、心象風景やその土地の風やにおいを表現できるようになりたい、と思う。



「カトマンズにて装備の点検。シーガルトラベルのスタッフの力を借りながら、食料の買出しや装備の準備を進める。」


8月8日(木)   カトマンズ快晴 井出里香

 本日は装備、通信関係の点検を行なった。無線機の組立ては皆初めてという状況にもかかわらず、比較的スムーズに作業が進行した。こちらではマオイストに対する警戒があり、アンテナを設営するにも周りの目を気にしながらの作業であった。

 カトマンズに来て驚いたのは排気ガスによる大気汚染がひどいことであった。町を歩くのにもマスクが必要なほどである。明日から高所順応のためのトレッキングに出かけるのでしばらくこの汚染空気から解放されるだろう。


8月9日(金) カトマンズ(1,365m)→ドゥンチェ(2,030m) 曇りときどき雨 恩田真砂美



 今日から順応のトレッキングへ出発だ。オンボロマイクロバスにトレッキングの食料や装備とサーダーのラクパ・テンジン氏はじめスタッフ17人、我々6人の総勢23人を詰め込み、スモッグで空気のよどんだカトマンズを朝6時に出発した。

 昨日まで、我々の装備や通信機器、通信衛星のセッティングを指導してくださった、ウエックトレックの貫田氏の見送りを受ける。遠ざかるバスを見送るその心境は、生徒を送る先生のような心もちだったのではないだろうか。

 バスは進路を北へ取り、ランタン国立公園内に位置するドゥンチェ村へと向かう。モンスーン季の水分を多く含んだ濃い緑の間を通り抜け、1355mのカトマンズから高度を一端600メートルまで落してから、一気につづら折りの道を駆け登ってゆく。左の谷は見るまに遠ざかり、気づくとバスは1台ほどがやっと通れるほどの砂利道を絶妙なバランスで進んでいる。左には深く、急峻な谷。崖崩れの跡を乗り越してバスがゆれるたび心拍数が上がり体に悪いので、運を天に任せて睡眠不足解消を決め込む。途中、4箇所のチェックポスト(関所)を通り、検問を受ける。

 この近辺にはマオイストが潜伏していると言われ、ランタン国立公園入口では、迷彩服に身を包んだ兵士が銃を背負い緊張した面持ちで上から睨みをきかせている。ランタンの村々は、谷ぞいの急斜面を上手に利用して段々畑を作り、谷ぞいには鉄塔と電線が走る。

 カトマンズから8時間。ガスに包まれたドゥンチェの村に到着した。「村と思ったら町のようじゃない」と隣に座る橋本隊長が言う。街道沿いに雑貨屋、靴屋、パン屋、八百屋、宿屋が並び人が行き交う。我々は、どんづまりのブッダホテルに投宿。夕食の夕方6時にスコールの様な雨が降り出した。

 この日記を書いているまさにその最中、19時半に部屋の裸電球が消える。村で電気の利用を管理しているのだろうか。あわててヘッドランプを取り出すが、虫が集まってかゆくなってきたので就寝。


8月13日(火) 足立道代

チョランパティ(3510m)→ラウレビナ(3830m)

8:00、1日の停滞を経て更に上を目指す。皆それぞれに多少の高度障害や風邪、下痢を抱えながらも久々の青空の下、元気を出して歩き出す。天気が良いので目的地のラウレビナヤクがロッジからも見える。サーダーやシェルパたちとくだらないおしゃべりをしながらビスターリビスターリ(ゆっくりゆっくり)高度を上げていくとなんとなく着くもんだ。一昨日までヒルが気になっていた足元も今日は高山植物で賑わい、ランタン山群の主峰、ランタンリルン(7246m)も雲の合間から垣間見え、なかなか楽しい。

10:30、雨が降り出す前にラウレビナのモーニングビユーロッジに到着。

 夕食後、ラクパさんにお願いしてトレッキングスタッフの自己紹介をしていただく。なんとも嬉しそうな彼らをみているとなぜだかこちらまで楽しい気分になってしまうのがネパールトレッキングのいいところ。私にとっては1年ぶりのネパール。さまざまな思い出となつかしさがたくさんつまった国です。高度の影響か頭は割れんばかりに痛いのですが、愉快な気分で今日も1日が終ろうとしています。


8月14日(水) 晴→霧雨→雨 柏 澄子

ラウレビナ(3820m)→ゴサインクンド・パス(4200m)→ラウレビナ→シンゴンパ
(3250m)

 朝方うとうとしていると、窓からの明るい陽射しを感じた。飛び起きて、カーテン
を開けると、雲の上にヒマラヤの白き頂が見えた。 急いでカメラ片手にロッジの外に出る。間近にそびえるランタン・リルンやガネッシュ・ヒマールには、圧倒的な存感がある。ピラミダルな美しい山姿のヒマルチュリや堂々たる風格のマナスルも見渡せる。はるか彼方には、小さいながらもアンナプルナを確認することもできた。雨季のさなかのトレッキングでの、最高のプレゼントだ。

 今日は、ゴサンイクンド手前の峠を目指す。生まれ育ったロールワリンでお坊さんをやっていたという物腰のやわらかなシェルパ、タムティンさん(28歳)を先頭にゆっくりと歩く。ゴサインクンドへの道すがらは、数日後から始まる祭りにむけて、準備が進んでいる。バッファローの肉を干しているロッジや食べ物を並べる茶屋、薪を運ぶ人々が目につく。9日後の満月の日にはヒンドゥー教徒や仏教徒が大勢集まり、湖畔で祈りを捧げ、夜通し歌と踊りが繰り広げられるという。

  残念なことに、霧がかかり峠からはゴサインクンドを見渡すことはできなかった
が、イエローポピーなどの高山植物をたくさん見ることができた。

  峠を後にし、再びラウレビナに戻ったのち、一気に3200mのシンゴンパまで下りてきた。



「ランタンのトレッキングにて、久しぶりの晴天。遠くガネッシュヒマールやマナスルを望むことができる。」


ラクパ・テンジンさんのこと 柏 澄子

 私たちの順応トレッキングのサーダーであるラクパ・テンジンさんは、いつも、列の最後尾を歩く。ときには、「オム・マニ・ペメ・フム」と経を唱えながら歩く信心深い仏教徒。ナムチェ・バザールに住む64歳の老シェルパだ。現役のシェルパのなかでは、最老齢だという。

 父は、チベットとインドを行き来する交易商だった。

 ラクパさんがシェルパの仕事を始めたきっかけは、1961〜62年の国際赤十字キャンプにある。当時、大量に流れ込んでいたチベット難民に医療活動をしていた。ラクパさんは、このキャンプにネパール軍のスタッフとして参加し、物資を運んだり、料理をしていたという。

 翌年には、アメリカのエベレスト隊に参加し、ポーターとクライミングシェルパの2役を担った。このとき、隊員からアイスクライミングやロープワークの技術を教えてもらったことがよい経験となった、とラクパさんは話していた(イタリアでの技術研修もある)。

 これまで約40回のエクスペディションに参加した。アメリカ、イタリア、スペイン、韓国隊にそれぞれ1回ずつ参加した他は、すべて日本隊だ。

 早稲田大学のローツェ・シャール(65年)、富山ヒマラヤ登山隊によるクルジャ・ヒマール(69年)、マナスル西壁登攀隊(71年)、第2次RCC隊のエベレスト(73年)、女子登攀クラブのエベレスト(75年)、JAC東海のマカルー(70年)同志社大学のダウラギリ(同年)など、数え挙げられない程の隊に参加している。「どれをとっても思い出深いもので、楽しく幸せなエクスペディションだった」と言う。

 70年のマカルーで、初めてサーダーつとめた。「8000mの頂を踏んだのは、エベレストとチョー・オユー、ダウラギ1峰だけ」と控え目に笑う。彼にとっての最後の頂上は、カモシカ同人のチョー・オユー(87年)であり、以来、彼はBCにとどまり、無線を使ってシェルパをマネージメントし、多くの隊員やシェルパを頂上に送り込んでいる。

 「サブリーダーはいるのか」と聞くと、一言「No.」「全て自分が指示を出し、シェルパたちは、それに従う」と。

 かつてのシェルパたちは、リタイア後、余生を静かに暮らした。現代のシェルパは、トレッキング会社を始めることも多いようだ。アンツェリンやテンジン・ノルゲイ、ギャルツェン・ノルブなどヒマラヤ初登時代を支えたシェルパを第一世代とするならば、ラクパさんは第二世代か。

 自ら頂を踏まなくなった今もBCからすべてのシェルパをマネージメントするスタイルは、ラクパさんオリジナルのものであり、現代的な性質に感じた。

 ところで、私たちが目指すチョー・オユーが初登されたときのサーダーであったパサン・ダワ・ラマについて尋ねると、当時10歳に満たなかったラクパさんは、「登頂後、ナムチェ・バザールに戻ってきた彼らが、祝賀パーティを開き、歌い踊っていたことを覚えている」と話してくれた。

 シェルパたちに対しては厳格なラクパさんであるが、私たちにとっては、いつも穏やかに笑いかけ、温かい心で接してくれるお父さんのようであり、心から信頼できる存在だ。


8月16日(金) ドゥンチェ→カトマンズ(快晴) 井出里香

 昨夕の土砂崩れにより道路が寸断されているという状況であったが、早朝のうちドゥンチェを出発した。途中まで専用バスで行き、落石現場は徒歩で通過した。通過中にも小さな落石が続いていた。私たち6人とサーダのラクパさんはその先でジープに乗り換え、午後5時頃カトマンズに到着した。帰路の途中、激しい夕立ちが降り、埃っぽい町並みは一時洗われたように視界がくっきりし、山間には虹がかかっていた。



「カトマンズにて買出しと梱包を終え、雨の中、ボーダナート寺院で無事を祈願する。明日、いよいよラサへ移動の予定だ。」


8月20日(火) カトマンズ 曇り →ラサ(3500m) 曇り 恩田真砂美

 早朝5時のモーニングコールで目を覚ます。外はまだどんよりと薄暗く、霧雨が降っている。前日のパッキングが思いのほか手間どったため、睡眠不足のぼんやりとした頭で出発の準備を始める。

 今日はいよいよ9時50分カトマンズ発の西南航空でラサヘ入る日だ。現地エージェントのロールワリンのプラビン氏とバンで空港へ向かう。旅行会社に勤めた経験がある隊員の足立さんによると、中国の西南航空は持込荷物の重量制限が厳しいらしい。荷物の多くなりがちな登山隊にとっては、やっかいなことである。しかし、カウンターの前には、なにやら良く日に焼けたスペイン語を話す人々が列を作り、登山道具や自転車など山のような荷物をキャリアに乗せている。その最前列にならんだ我々の荷物は、思いのほかコンパクトな印象である。そのお蔭かチェックインはスムーズに済んだ。

 飛行機は30分遅れで離陸。薄暗いカトマンズから、分厚い雲を一気に抜けて、青空の広がる上空に出る。天気が良ければ、エベレストやローツェ、我々の目指すチョーオユーの頂を望めるはずなのだが、雲の層は厚くちょっとだけ頭を覗かせたひときわ高い頂上が、おそらくエベレストなのだろうと想像する。それにしても、曇や雨の多いカトマンズから久しぶりに青空を望んだ気分は、壮快。すっきりと晴れ渡る、こんな空の下で登山をしたいものだ。飛行機は荒涼とした山々の間に高度を下げ、1時間ジャストで、ラサに着陸。

 ネパール時間の10時20分を北京時間の11時35分に直す。天気は晴れ。空気は乾燥している。イミグレーションカウンターのすぐ近くには今回の受け入れを担当してくださった西蔵登山協会の張江援氏と通訳の張氏がわれわれのために待機してくださる。お蔭で無事に入国手続きを終え、預け入れ荷物を載せた2台のカートを押しながらゲートを越えると、中国側隊長であるグイサン女史と通訳のディキさんがほっとするような笑顔でたたずんでいた。グイサンは背が高く、細身だが、しっかりと地を踏みしめているような存在感のある女性で、そのたたずまいに一発で魅了される。

 2人の女性から我々は歓迎のカタ(白い布)を首にかけてもらい、早速登山協会が用意してくださったランドクルーザー3台で市内へと向かった。褐色の荒涼とした山々の間を流れるキチュ(ラサ)川とそれに沿ってのびるコンクリート道脇にはポプラ並木と刈り入れの時期を迎えた麦畑がつづく。車から望む空は青く、噂に聞いていたとおり宇宙を感じるような広がりがある。ここ3日間ほど続いた雨の後の晴れ間らしい。なんだか幸先が良いね、と互いに喜びあった。



今回の遠征隊のシールの張られたランクルで移動


8月22日(木) ラサ滞在 晴→曇→雨→晴→雨→晴 柏澄子

 この時期、ラサの天気は目まぐるしく変わる。今朝は、青空にちぎれ雲があった。

 午後から、チベット側の隊長である桂桑(グイサン)さんの自宅を訪ねた。チベット風の居間には、カイラスの写真と、重慶で勉強する高校生の長男や一緒に暮らす小学生の次男の写真が飾ってあった。

 短い訪問のなかで驚いたことは、バター茶をミキサーで作っていると聞いたこと。「ミキサーに紅茶とバターと塩を入れてスイッチを押すだけ」という。てっきりドンモ(バター茶を作る昔ながらの木製の筒。手作業で作る)を使っていると思っていたのに。どおりでよく撹拌されていて、洗練された味わいだこと(その後の旅でわかったことだが、ミキサーでバター茶を作るのはポピュラーになりつつあるようだ)。

 は、壮行会が催された。政府の要職にある人や今回の登山の中国側のメインスポンサーである製薬会社の方々、中国西蔵登山協会の方々など100人以上が集まった。

 メンバーであるチベット人女性たちとも対面できて、とっても嬉しかった。

 隊長の桂桑さんは、寛容な心をもった女性のように感じている。彼女のこれまでの人生や背負っているさまざまなものを考えると、心がゆれる。

 登攀隊長の吉吉(ジジ)さんは、99年に登山家である夫とチョモランマに登頂している。彼女自身も、チベットでも有数な登山家だという。

 ほかの3人もプロの登山家だ。みな、凛としたたたずまいのなかに、明るい笑顔をもった素敵な女性たちだ。

 彼女たちと山を登ることができるのが、今回の登山の最大の魅力であり、気持ちが引き締まる思いだ。

 ラサ滞在3日目であるが、雑務などに追われ、ポタラ宮は、前を通り過ぎるだけだ。ホテルへの帰り道、宮殿の部屋部屋に、灯がともり始めていた。


8月23日(金) ラサ→シガツェ 晴 足立道代

 いよいよラサを出発。TBCまで3日間の車での旅の始まりである。9:00から私たちの出発のためにセレモニーがホテルの前で開かれ、何人もの人から無事を祈るカタをかけて頂き、何杯ものチャン(地元のどぶろく)を乾杯した。多くの人々に見送られての出発に中国隊のメンバーは皆、涙を流し感動的な出発であった。と同時に昨日、突然の下痢と発熱に見舞われた私は今朝も食事をぬいていたので空きっ腹でこの標高(3650m)でこんなにチャンを飲んでしまってこれからどうなってしまうのだろうと私なりに深刻に心配していた。(幸いどうにもならなかったが)

 ラサを出てひたすら西へ向かう。ラサは想像以上に大きな街でチベットというよりは中国そのものであった。ラサをでてしばらくいくと車窓の風景はだんだんとわたしが描いていたチベットに近付いてきた。穂が重そうにみのった麦畑、満開の菜の花畑、薄ピンク色は蕎麦の花だろうか、乾燥した土色の山々に囲まれた高原は、青空の下、どこまでも美しい広がりをみせている。中国隊員は全員がチベット人で車中で何曲もチベットの民謡を歌っていた。郷里を想う歌が多く、メロディーは短調で少しもの悲しいのだがこれがまた車窓の風景とぴったりで、つい感傷的な気分にひたってしまう。17:00シガツェ到着。これまた想像以上の大きな街で驚く。S higatse Shandong Hotelは新しく、とても立派なホテルで拍子抜けしてしまうくらいであった。

 夕食はシガツェ地区の役人の方から歓迎パーティーに招かれる。どこへ行っても歓迎されてちょっとくすぐったい気持ちだが中国隊員とも少しずつ打ち解けることができ楽しい食事だった。

 最後に個人的なことだが少し風邪気味である。あの下痢もそのせいかもしれない。これからが本番だからできるだけ睡眠をとり、早めに直してしまいたい。


8月24日(土) シガツェ(3,760m)→ティンリ(4,300m) 曇り→晴れ→曇り 恩田真砂美

 午前9:43にグイサンの出身地であるシガツェの町を出発。昨晩はシガツェ登山協会の計らいで、町の宴会場にて前夜に続く壮行会を催していただく。橋本隊長より高所での酒を謹むよう仰せつかっている我々は、ヨーグルトドリンクで乾杯の嵐を切り抜けた。それにしても、シガツェの町は予想をはるかに越える大きな町である。宿泊したホテルもラサに匹敵するレベル。町の商店街は洋服屋、文房具屋、品揃えの良い化粧品屋まである。我々は、おしゃれなチベットの女性隊員たちに見習って、口紅を買い込んだ。

 シガツェの町を出ると景色は一転し、なだらかな丘に囲まれた草原が続く。その間を、トラック2台ほどが行き交える道幅の、コンクリート舗装でもされているような平な道が続く。たまに、オレンジの蛍光色のベストを着た人夫5、6人がシャベルで道に砂を撒いて整備をしている。道の両側には、菜の花の黄色い花畑や、さやえんどうと思われる赤い花畑が彩りを添える。麦は穂をたれ、金色に輝いている。刈り入れの終りかけたラサよりも少し時期が遅れているようだ。

 バスには、昨日に引き続き明るく歌うチベットの隊員たちの声が響く。12:21分4200mのツォ峠に到着。チベット隊員に習って、出発の時にもらった8枚のカタ(白い1.5mほどの布)のうち1枚を、峠にたてられたタルチョーに巻き付けて無事を祈念する。峠を一気に下り13:30分ラツェに到着。街道沿いに並ぶ土壁の古い町並みの向うに、漢字の看板を掲げた近代的なコンクリートの建物が続く。町のアンバランスな雰囲気の中で、物乞いがやけに目につく。グイサンは朝食で余ったお菓子を取り出し、集まって来た子どもたちに分け与えているが、ただ甘やかしているのではなく、しつこくねだる子どもをきちんと叱る。

 レストランでの昼食後、雑貨屋でtbc用の布団(1枚50元、約300円)を購入する。カトマンズから入って来る陸路での荷が届くまで、先発隊のシュラフが無いためである。

 町を出ると、山々が迫り、谷間の荒れた道となる。途中、崩壊した道を迂回。16:50分第二の峠(5,200m)を越える。晴れていれば、遠くに最高峰のチョモランマや目指すチョーオユーが見えるらしいのだが、残念ながら遠く雲に覆われている。

 本日の宿泊地であるティンリに到着する直前、赤色の花が咲いた畑を指さし、中国の隊員が大きな声で運転手に話しかける。バスが畑の横に止まると、一斉に皆はしゃいで外へと走り出し、畑の中へと入っていった。近づくと、さやえんどうを真剣に摘んでいる。となりで一緒に摘み出すと、平たいものはだめで、ふっくらとよく成長したものがいいのだと教えられる。なんと、彼女たちは、摘みながら中の豆を生のまま食べ始め、食べてみろとすすめる。おそるおそる口にすると、甘く新鮮な味わいでなかなかいける。いつまでもバスに戻ろうとしない彼女たちを、運転手が大声で呼び戻し、18時過ぎにやっとティンリへ到着した。



途中 ラサ〜TBCの途中の風景


8月25日(日)ティンリ(4300m)→TBC(4700m) 橋本しをり


 ティンリにて滞在する当初の予定を変更して昨日の昼ご飯後に布団を買い出しして本日ティンリ4300mを出発しました。4200m以上の土地では畑がないと思っていましたがここでも油をとるための黄色とピンクの花がさいていました。

 チベットといえば茶色の風景が続くイメージがありましたが緑豊かな畑の多い土地でした。3600m以上の地に宗教で成り立っていた国がどうしてあったのか長年の疑問でしたが少しその理由がわかったきがしました、1983年に行った ブータンもやはり農業国で、仏教心のあついところでした。

 茶色の山をみているとニューメキシコのジョージアオキーフの絵を思い出したりしながら車はすすみ突如チョーオユーが姿をあらわしました。おもわず恩田さんと顔をみあわせまてささやきました。雪が多いと。TBCについたらそうでもないと少し安心しました。TBCは4700mです。

 4700mにはいるために昨晩聴いた小山実雅代さんのラベルの演奏を思い出しながらのベース入りでした。彼女の姿勢のよさを見習おうと思いました。


8月26日(月)TBC滞在 晴一時雨 足立道代


 今日はTBC滞在。9:00朝食ということでのんびり寝ていたがなんと中国隊員は早朝トレーニングということでTBCの裏山をひとっぱしりしてきたというから驚きだ。明日は一緒に行こうと誘われたがそれだけでひっくり返ってしまうのではないだろうか。

 昨晩は寝付きが悪く血中酸素濃度もあまり好ましい数値でなかったのでこの先を心配したが、幸い頭痛もなく下痢も風邪も回復にむかっているので安心。

 今日の仕事は私たち日本人用のテントなど2張建てることと男女別のトイレを作ることだ。皆、働き者でどんどん力仕事もこなしていく。一緒に同じことをしようとしたら大間違いだ。テント周りの側溝を掘ろうとスコップをふるってみたものの5回くらいで息があがってしまう。まったくあきれるほど役にたっていないのだが一人前に疲れている私にも「辛苦ラ、辛苦ラ、ごくろうさん」と声をかけてくれるのだから、お恥ずかしい限りである。一息着いてのトイレ作りは結構楽しい作業だった。トイレのことを皆が同じように考えられるのは女子隊の特典だと私は思う。それだけでストレスが半減する気がする。

 午後は高所順応のためハイキングにいこうという前日の予定を変更して、休養。一日の欲ばって多くのことをこなそうとすると、この標高では身が持たない。一日一仕事というところで体を慣らしていく。今までなかなか自由な時間がとれなかったため、ゆっくりと私物整理や布団干し、昼寝など隊員はそれぞれにくつろぎ、幸せな午後のひとときであった。

夕食後、散歩にぶらぶらと出ていたらチョーオユーが見えてきた。うーんあれがチョーオユーか。その山にこれから登ろうというのに、いまここにこうしてチベット高原にいることすら未だ実感の湧かない私である。今のところ、毎日、元気に楽しく過ごしている幸せものです。



トイレ BCで作ったトイレ


8月25日(日) ラオティンリ→ニエラム→ダム 晴→あられ→雨→晴 柏 澄子


輸送の旅

 ラオ・ティンリでみんなと別れ、陸路輸送分の荷物約2000キログラムを受取に、中国・ネパ-ル国境まで下っていく。日本からアナカン別送品)として送った装備、カトマンズで購入した装備、ロシアから輸送した酸素ボンベ類などがあるのだ。どれかひとつでも紛失しては、登山活動に影響が出るので、確実に輸送する必要がある。メンバ-は、通訳の徳吉(ディキ)さん、ランクルの運転手普布(プブク)さん、トラックの運転手である丹珍(ディムデン)さんと私の4人。

 ラオ・ティンリを抜けるとすぐに、ダートの道になり、川を渡ったりしながら進む。4000m級と5000m級の峠を越える。峠では、タルチョが風になびいていた。私たちも、旅の安全を祈り、カタをかけ、タルチョの周りを一周した。峠からは、シシャパンマやドルジェ・ラクパ、ガウリシャンカールなどが望めると聞いていたが、厚い雲に閉ざされていた。辛うじて、シシャパンマの荒々しい山肌を確認できただけだった。

 峠を越すと、どんどん標高を下げていく。富士山の頂上程度の高さであるニエラムでは、同じくチョー・オユーを目指す中央大学隊の3人に会った。彼らも輸送で苦労したようだが、元気そうだった。

 ニエラムを過ぎると、緑が濃くなり、切り立った渓谷ぞいの悪路を下っていく。花が咲き乱れ、湿気を帯びた風が吹いている。ラサ生まれのディキさんも、「酸素濃い。嬉しいね。私、緑大好き」と歓声をあげる。

 これでもか、と下降していくとダムに着いた。中国側の国境の街だ。チベット語と中国語とネパール語が飛び交い、チベット人と漢人とシェルパなどのネパール人がいる。国境特有の活気があふれていた。

 私たちは、カスタムオフィスのゲートの目の前に投宿し、 6時間の旅が終った。

 ダムには、通訳やドライバーなどTMA(中国西蔵山岳協会)のスタッフが大勢いて、にぎやかだ。陸路でネパールからやってくる登山隊を待っているそうだ。夕食は、スタッフらが切望するネパール料理となった。


8月26日 ダム滞在 晴時々雨 柏 澄子


 2700mの空気はおいしい。ぐっすり眠り、朝寝坊してしまった。慌てて起きて、スタッフ全員集合。昨晩より問題が増えていて、頭が痛い。それでも、なんとか、10時過ぎに中国側のカスタムを出ることができた。私たちメンバーの他に、昨日まで、隊員の乗るバスを運転してくれていた老謝さん(本名:謝(シェイ)さん)も交渉を手伝ってくれることになった。

 カスタムを出ると、国境となっている友キ大橋に向かってダートの道を下りていく。途中のディスタンという村を過ぎると橋だ。橋の向う側に渡って、私たちの荷物を運んできてくれている、シーガルトラベルのタシさんを探したいのだが、なかなか、ボーダーの向うに行かせてもらえない。本当に困っていると、橋の向うからタシさんが「ディディ(年上の女性の呼称。同い年なんだけどなあ)! ナマステ!」と叫び、手を振りながらやってきた。嬉しかった。

 それから、一度ネパール側に入って、荷物受渡しの手順を相談した後、中国側に戻った。

 ネパールのトラックと中国のトラックの荷台をくっつけて、ひとつひとつチェックしながら中国のトラックへ移していった。タシさん、ダキさん(同スタッフ)とローカルポーター4人のお蔭で、86口の荷物を無事、移すことができた。

 タシさんとがっちり握手をし、深謝して別れた。彼には、カトマンズでの梱包のときから、お世話になりっぱなしだ。

 中国側に戻り、BC用の果物を買い出したら、18時になってしまった。

 その夜は、ディキさんとふたりで食事に出かけた。34歳のチベット人。6歳の子持ち。チベット大学卒業後、北京で旅行マネージメントを学び、その後、チベット大学で英語を教えながら、旅行会社で働いていた。28歳でオーストリアに留学し、今は、TMAで通訳の仕事をしている。英語、ドイツ語、日本語を操る。

 彼女の語る、チベットのこと、生き方、考え方、将来の展望は、共感する部分が多く、異国に生まれた同世代の女性と話ができて嬉しかった。



峠 4200mのツォ峠カタをかけ祈願する隊員


8月27日(火) ダム→ニエラム→ラオ・ティンリ→TBC 柏 澄子


 往路をひた走り、TBCを目指す。今日は一気に高度を2500m上げる。いくら4000m級に順応しているとはいえ、心配だ。

 満月に近いふっくらとした月が出ている朝7時に出発した。

 TBCに着いたのは、16時半。長い旅だった。日本隊員・チベット隊員全員が手伝ってくれて、全ての荷物を降ろし、無事を確認できたときは、ほっとした。

 今のところ高度障害の症状は見られないが、疲れが出てきた。

 久しぶりに音楽を聞きたくなった。ネパール人女性歌手のアルナ・ラマの歌声を聞きながら、眠りに着いた。


8月28日 TBC滞在 晴ときどき曇 柏 澄子


 朝、ヤクの首にかかる鈴の音で目を覚ます。私たちの荷物をABCに運んでくれるヤクとヤク使いが上がってきたのだ。

 TBCは、荒涼とした広い大地にある。川がつらつらとながれていて、行く手には、氷雪の山が望める。雲が切れれば、チョ-・オユ-も望めるはずだ。

 軽い散歩の後、朝食となった。午前中は、酸素の点検にあてた。重要な作業だ。

 その後は、この日記を送信すべく試みたが、うまくいかない。衛星電話の設定やバッテリィの確保などに問題があるようだ。送信はできなかったが、HPの掲示板メッセ-ジを受信することができた。管理者の方が送ってくれたのだ。ひとつひとつにお返事を書くことはできないが、嬉しく読ませていただきました。ありがとうございました。

 日中、チベット人メンバ-にチベット語を教わる。ひとりに教わっていると、他のメンバ-も集まってきてあれこれ教えてくれる。頭の中がグルグル回ってきた。

 夕刻には、総隊長の張江援氏が上がってきた。

 夜になると、ぐっと冷え込んだ。月に照らされ青白く光るヤクの骨が散らばっているなかをとぼとぼとトイレまで歩いていく。

 今晩は、アルゼンチンの音楽「ブエノスアイレスのマリア」を聞きながら眠ることにした。いっとき、別の時空間に身を置くことができる。


8月30日( 金) トラックべースキャンプ tbc 晴れ 大窪三恵


 昨日の昼過ぎ、井出、大窪は無事本隊に合流することが出来ました。

 日本テレビの西岡さんが、日本から私の為にアンパンマン指人形とバタ子さんとチーズ犬の財布を持って来てくれてプレゼントしてくれました。大感激!有難うございます。財布は下山してから使います。人形は出来れば頂上へ連れていきたいです。

 朝方7時頃、テントの外が騒がしい。まだ辺りは薄ぐらい。日本テレビと中国人スタッフの装備が盗まれてしまった。早速、公安(警察)へ連絡。すぐライフルを持った中国公安が来てくれて辺りを捜索するが、見つかったのは中華鍋のみ。通りすがりの遊牧民?山賊?気を付けなければならない。

 そう言えば、明日は英之(弟)の誕生日です。おめでとう。


8月31日(土)tbc、曇 井出里香


 今日は午前中に5425m付近までハイキングに出かけた。途中、景色を楽しみながら高度順応した。あいにく、今日はチョオユーは雲の中に隠れてその姿は見られなかったが、周囲の山々や氷河から続く川が一望できた。

 夕食は中国側が調理してくれたヤク(高所牛)の肉が出てきたが、スパイシーな味付けになっていたので、美味しく食べられた。


9月5日(火) abc 雪 大窪三恵


 頭痛、吐き気に苦しめられながらabc入り。標高約5700m。装備の整理、中国隊員への和食の高所食の作り方、酸素ボンベの使い方の説明等をする。中国隊員は、全員酸素ボンベ使用経験者で、更に高所協力員は全員チョモランマ登頂者。テントではタバコは吸うし、お酒も飲むし、それでも強者。

 1995年のマカル東稜、1992年のナムチャバロワのスタッフも多い。明治大学山岳部の先輩方の名前も出て来て盛り上がる。

 今日はc1への偵察の予定だったが、雪の為に天気待ち。

 バタ子は元気にやっています!


9月7日(土) ABC→6810m→ABC 晴れ時々雪、曇 柏 澄子


 朝8時22分にABCを出発し、上部へ向かった。高所順応のためだ。1時間程歩くと、チベット人女性隊員と協力隊員(荷揚げやルート工作など、私たちの登山をサポートしてくれる中国人・チベット人男性7名)に抜かれてしまった。彼らは、私たちより1時間半遅れて出発したはずなのに。一体、歩くスピードにどれぐらいの差があるのだろうか。テレビクルーの青田浩さんが、「2.5倍の速さだな」と即答してくれた。算数の教科書に載っていたであろう数式も、6000m近い酸素の薄いこの環境では、解くことができない。高地に住む彼らとは、高所への順応スピードが明らかに違う。焦らずに、自分の心肺機能に合わせて、ゆっくり進むしかない。

 この日、私たち日本人隊員は、昼過ぎに、6180m地点で引き返した。C1まで残すところ、約200m。少しずではあるが順応してきていて、からだが軽くなってきた。次回はC1までたどり着けるだろう。

 6180m地点からは、チョー・オユーの登高ルートがよく見えた。私たちが登る山なんだ、という実感が湧いてきた。

 ABCにきて1週間ほどになる。世界各国から登山者が集まり、ここ数日でテントの数も倍増した。デナリから南米の山を旅してきた福岡山の会の蜂谷さん(仲間3人で登りにやって来た)やソロ・ワンプッシュで登るという田茂井さんが遊びに来てくれた。あと数日すると、別の日本隊やラッセル・ブライス隊もやってくる。にぎやかになりそうだ。

 私たちの隊も、5700mながら、快適な生活空間をつくることができた。
中央にキッチンテントと荷物テント、医療テントがある。私たちのテント村中には、
タルチョがたなびいている。チョー・オユーの全容やネパールとの国境にあたる峠、ナンパラを望むことができる絶好のロケーションだ。

 大窪さんと足立さんは、仲良くふたりで同じテントに暮らしているが、ほかの4人は個人テントだ(別に仲が悪いわけではない)。
私は、2〜3人用のテントを使っている。約半分を荷物が占め、残りの半分にエアマットを敷いて寝ている。

 枕元には、お楽しみグッズが散らばっている。硬軟取り揃えた単行本(古くからJAC会員である方に貸していただいた「チョー・オユー登頂」(ティッヒー著)しか読んでいないが)や、アロマオイル、MDなどがある。音楽は、古今東西いろいろ持ってきた。

 音楽を聴きながらシュラフにもぐり込むと、ここがどこだかわからなくなる。まるで自宅の部屋で寝ているようだ。昨晩もそんな気分で眠りにつこうとしたところ、陽水が「毎日、吹雪、吹雪、氷の世界」と叫ぶので、テントの外が雪だったことを思い出した。今晩は、橋本隊長持参の「ロング・バケーション」(大滝詠一)を聴かせてもらうつもりだ。


9月18日(水) abc 晴れ時々雪 大窪三恵


 昨日、キャンプ2からabcに降りてきました。

 abcは、私たちが来た時よりも倍近くのテントが増えていました。本当にキャンプ
村って感じです。

 今回驚いたことですが、キャンプ2(7100m)までカラスが飛んで来ることです。私たち人間が出す食料が目当てでしょうか?果してキャンプ3(7600m)にもカラスは飛んで来るのか?日本でのカラス対策、相当気合いを入れないと、と思ってしまいました。カラスって強いんですね。

 ラマカレンダーによると、暫く悪天とのこと。アタック体制は少し遅れそうです。
たんみーたんみーたんみー。


9月22日 雪→晴 柏 澄子

 明日からのアタック体制に備えて、今日は最後の装備チェックをし、その後はゆっくりと過ごすことにした。いやおうなしに神経が過敏になり、緊張してくる。

 夕刻からは、恩田さんと井出さんを誘って、ラッセル・ブライス氏のテントに遊びにいった。シャモニを拠点とし、チョモランマやチョー・オユーなどでコマーシャルエクスペディションを繰り返している彼の話は、とてもおもしろかった。シンプルなスタイルで自然に向き合っている姿勢に共感を覚えた。この話は、いずれほかの機会に詳しく書きたいと思う。

 夕食後、恩田さんとふたりで隣の大蔵隊のシェルパであるタシ・ダイ(タシ兄)と立ち話をした。タシ・ダイには、装備のパッキングや輸送のことでとてもとてもお世話になっている。また、カトマンズを出発する前には、私たちをボダナート(チベット仏教の寺)へ連れて行ってくれ、高僧に登山の安全と成功を祈ってもらう機会を作ってくれた。

 タシ・ダイは、私たちメンバーのひとりひとりを「ディディ(目上女性への呼称)」と呼び、梱包・輸送を担当する私のことを「パッキング・ディディ」(直訳すると“荷造り女”かい!)と、登攀隊長である恩田さんのことを「クライミング・ディディ」(正統的な名前だ!)と呼ぶ。そこで私たちは、彼のことを「ジョーキング・ダイ(冗談ばかり言う兄さん)」と呼ぶことにした。彼はどうにかして人を笑わせようとし、面白いことばかり言う。いやいや、優しく温かく心のこもった話もたくさんしてくれるのだが、どうも冗談ばかりが際立ってしまう。

 その日も、チョー・オユーが夕陽に染まりこれ以上ないほど美しい色合いで輝くのを眺めながら、ジョーキング・ダイは冗談を連発していた。多くの登山者が、自らが目指す頂きにカメラレンズを向けているなか、私たちはそんな気にもなれずに、いつまでも笑い転げていた。

 日が暮れて、ひとりテントに戻るころには、気持ちが軽くなっていた。いっとき、アタックへの緊張を忘れることができ、ぐっすり眠れた。


9月23日 晴 柏 澄子

 いよいよ、昼過ぎに出発することになった。装備が入ったザックをテントからだし、テント内を簡単に片付けた。同時期に、隣にあるギャチュンカンに登っている友人がくれたオーバーミトンは、今回は使わないのでABCに置いていくことにした。ミトンに描いてくれた楽しい絵を眺めながら、彼らは今頃どうしているだろうかと考えた。

 また、私は今度ここに戻ってくるとき、どんなふうになっているだろうかと考えた。8000メートルという存在するだけで人間が死へと向かう地帯に足を踏み入れることの恐ろしさを考えた。頂上まで達することができるかわからないけれども、自分の力で行って帰ってこられるところまで、ともかく登ってみようと考えた。ミトンの絵に向かって、「必ず帰ってくるから」と心の中でつぶやいた。緊張感が高まってくる。

 メンバーやスタッフのみんなに挨拶をしてでかけることにした。
橋本隊長の手を握り、「ありがとうございます。行ってきます」と言うと、これまでのさまざまな出来事が頭のなかをよぎり、涙があふれそうになった。

 私たち3人の出発に合わせて、ABCマネージャーのトゥプチェさんが、ドゥビー(香木)をたいてくれた。ABCから私たちの姿が見えなくなっても、いつまでもいつまでもたき続け、細く白い煙が立ち昇っていたという。足立さんは、途中まで見送り、しばらくの間長いこと、私たちの背中に向かって口笛を吹いてくれていた。やがてその音も聞こえなくなるころ、恩田さんと大窪さんと私の3人きりになったことを実感した。通いなれたC1への道をとぼとぼと歩いた


9月24日 雪時々曇り 柏澄子 柏 澄子

 C2への道のりは長い。9時(中国時間)出発と意気込んでテントを出ると、チベット側の登攀隊長であるジジ(吉吉)さんが、テントから飛び出てきた。高所協力員であり中国のテレビ局から撮影を依頼されているローセンさんもあわてて寄って来て、早口の中国語を飛ばす。トランシーバーを使い、ABCにいる通訳の張少宏(チャン シャォホン)さんに訳してもらったところ、強風悪天のため、出発を見合わせるとのこと。

 テントは強風に吹き揺られ、タルタックもビュンビュンと音を立てて大きくたなびいている。時折、チョー・オユー上部が見えるが、不吉な雲に覆われていた。
昼近くまで様子を見たが、この日はC1停滞となった。

 ところで、通訳の張さんのことを少し書きたいと思う。
彼の任務は、チベット女性隊員や高所協力員、中国側のスタッフが話すチベット語や中国語と、私たちが使う日本語を通訳してくれることにある。大小あるミーティングのほか、ちょっとしたおしゃべりなどあらゆることを。まさに、24時間体制だ。
 
右の人の言葉を左の人に伝える仕事が、どれだけ大変なのか。バックボーンが大きく違う互いの言葉を直訳しては、誤解が生じることもあるだろう。それぞれの立場を考えながら円滑なコミュニケーションを維持させることが、どれだけ大変なことなのか。自分の言葉には口を閉じ、来る時も来る時も、他人が話す言葉を伝え続けることが、どれだけ大変なことなのか。否応なしにあらゆる言葉が自分の体の中に入ってくることが、ときには大きな苦しみになるに違いない。

 彼の任務は、重要不可欠かつ大きな負担のかかるものだった。
そんな張さんであるが、いつも明るく、いろいろなことを話してくれた。言葉を伝えるだけでなく、その周辺にある細ごまとしたことまで、私たちを背後から助けてくれた。

 中国代表の陸上選手(十種競技)だった彼は、競技中に大怪我をし、考えるところあって四川省成都市でカヌーやラフティング、トレッキングなどの旅行会社経営を兄と始めた。隊の全員の言葉に接し、それを訳す役目を果たすなか、今回の登山を張さん自身はどう感じているのか(頂上に登る意志が強かった張さんは、2次隊でサミッターとなった)。話を聞いてみたい。

夕刻には、チョー・オユーの頂きが朱色に染まった。明日こそ晴れるだろうか。


9月25日 曇り→雪 柏 澄子

 一晩中ひどい強風が、いやというほど吹きつけていた。これでモンスーンが明けてくれるのだろうか。半ば祈りながらシュラフのなかで風の音を聞いていた。
朝になっても風はやまず、天気も回復しない。頂きには、見たこともないほど大きなかさ雲がかかっていた。今日もC2に上がれないのだろうか。気持ちが焦ってくる。

昼前になると、C2から高所協力員が全員下りてきてしまった。ここ連日、C2、C3で活動を続けてきた彼らも、この強風悪天ではどうにもならないというのだ。これ以上高所にとどまっては消耗するだけなので、ABCに下りると主張している。ジジさんと、協力員側のリーダーであるカイツォ(開村)さんが声を荒げて話している。互いの主張が行き違っているのだろうか。ジジさんもカイツォさんも、登山技術的にもまた人間としても信頼できるリーダーであり、この2人の話し合いの結果を待つしかない。

 その後、ABCのグイサンさん(チベット女性側隊長)や橋本さん、さらにはTBCの長江援さんと話し合い、全員が一旦ABCに下りることになった。天候が回復しないまま、C1に居続けては、体力が消耗し、食料や燃料がなくなっていくだけだ。再度、気象予報を集め、アタック体制を立て直そうというのだ。
確かにそのとおりなのだが、もしかしたら明日は天気が回復するかもしれない。モンスーンが明け、天気がよくなったときに、一気に頂上まで進みたい。それを考えると、今下りることが、天候回復のタイミングを逃すことにはならないか、少し不安だった。

 チベット女性隊員たちのテントでは、ジジさんを筆頭にププティカさん、ラージさんらが、バター茶やトゥクパを高所協力員たちに振舞っている。さながら、宿屋の女将のような手際のよさだ。

 後ろ髪を引かれるような思いで、下山の途に着いた。レイクまで下り、チョー・オユーの頂きを見上げながら、「必ずもう一度戻ってこようね」と恩田さんに話しかけた。

 今シーズンは、モンスーン明けが遅れ、天候が不順である。21の隊が入山しているが、悪天のなか、あきらめずにハイキャンプにとどまる者、期限切れで荷下げを始める者、私たちのように仕切り直しと休養のためにABCへ戻る者など、さまざまだ。それぞれのチョー・オユーにかけた夏休みが終盤を迎えている。


9月26日 雪→晴れ 柏 澄子

 朝目覚めてからの雪かきは一苦労だった。今シーズン一番の大雪だ。下りてきてよかった。

 夕刻になると、日本テレビ取材班の中村進さんが入山してきた。ありがたいことに、昨日、TBCに到着したJACの支援隊の方々からの差し入れや、彼らが運んでくださった家族・友人からの手紙などを持ってきてくださった。

 羊羹やうなぎなどおいしいものをたくさんいただき、私たちは大喜びだった。
うなぎは各隊員に配り、それぞれが好きなときに食べることになった。私は、アタックのときにC1まで上げて、そこで食べることにした(後日談であるが、高所協力員のローさんにあげたうなぎを、彼はC3まで荷揚げしアタック前夜に、「うなぎ、ハオ(うなぎはおいしいね)。食べなよ」と私たちに差し出してくれた。残念なことに私たちの消化能力では、あの時点では雑炊しか食べられなかったが、ローさんの優しい気持ちになんだか胸いっぱいになった)。

 日本からの手紙を読むと、里心がつき感傷的な気持ちになる。こう長いこと家を空けても、私の場合、そう頻繁には家族のことを思い出すわけではない。しかし、ひとたび思い出すと、ぐっと深く思いが巡るように思う。

今回の登山期間中、家族のことを深く思い出したのは、この手紙が届いたときと、ABCに入山してプジャ(法会。今回は登山の安全と成功を祈った)をしたときだ。

プジャでは中央に岩で祭壇を作り、ここから5つの方向に向けて、タルタックを張り巡らす。私たちも、ボダナートの近くで買い求めたタルタックを手に持ち、祭壇に集まった。グイサンさんが「家族の名前を書くとよい」とペンを貸してくれた。私も、彼女らを真似てタルタックに家族の名前を書き込んだ。このとき、なんだか急に家族のことを思い出し、胸が詰まった。
チベット女性隊員らも、ときどき家族のことを思い出すようだ。写真を入れた小さなアルバムを見せてくれる者、途切れ途切れながら家族の話を始める者もいた。夫からもらった真珠のネックレスを大切にしている隊員もいて、なんだかうらやましかった。

 ラージさんには、2人の子どもがいる。まだ幼い彼らのことを恋しくなることもあるのかと聞いたところ、彼女が感極まって泣き出してしまうという一幕があった。申し訳ないことをしたと後悔した。

通訳としてTBCに滞在しているディキさんも、「絶対子どもには電話をかけないわ。電話をかけたら最後、『お母さんはなんで戻ってこないの。今なにしているの。いつ帰ってくるの。どうして僕を置いていくの』と電話口で泣かれてしまうもの。私の心もmissingよ」と言っていた。仕事を優先させたい、これ以上子どもを産みたくない、自分のキャリアをアップさせていきたいというのが口癖の彼女の、母親としての一面を垣間見た。

そういえば、ラサを出発するときのこと。隊員の家族友人が大勢見送りに来ていた。ひとりひとりと握手をして目に涙をためながらバスに乗ったあと、彼女らは、決してサングラスを外そうとしなかった。西蔵登山協会に所属し、登山家を生業として各地の山を登っている彼女らも、家族や恋人など自分の大切な人たちとのしばしの別れは辛かったに違いない。サングラスから涙がこぼれ落ち、頬を伝わっていた。

 あれから早1ヶ月が経った。
アタックに向けて、これから何日間休養できるかは、今の時点ではわからない。天候次第だ。なるべくリラックスして、疲れをためないようにしながら体調を整えていきたい。泣いても笑っても、あと1週間以内には、私たちの登山は幕を下ろすのだ。