中央分水嶺踏査登山活動報告
山陰支部
薮から掘り出した分水嶺 2005年9月8日11時40分、分水額踏査が完了した。、 翌日の月例会で、支部長はじめ担当の委員長や集まった支部一同、大安堵した。長く重苦しい年月だった。
2003年のいつ頃だったか、支部長から説明があった時、会員からは「エー、ウソ!あんな所の踏査なんて無理。本部の現場を知らない連中が気楽に計画して、よく言うよ……」と、悲鳴があがった。それというのも支部では1989年に「山陰の百山」、1999年に「鳥取、県境の山」、2000年に「美しき伯耆の滝たち」という研究誌を発行しており、その都度、今回の分水嶺である県境を踏査したいと思いながら、その困難性から断念してきた経緯があったからである。2003年には踏査の特別委員会を作るなど態勢は作られたが、動きは鈍かった。ようやく重い腰が上がったのは2005年5月から。スタートしてみれば、山城が自宅から1時間程度と近いことから能率が上がった。
当支部の分担は、地点コードW322からW403までの水平距離約136kmで、岩場はなく薮山である。蹄査参加人員は延ベ159人、歩行時間は廷ベ168時間。歩行時間による道の状況を区分すると、B−2が45%、B−3が26%であり、道がなくて薮こぎをした時間が全体の71%であった。薮は高さ2〜3m、直径1〜2cmの竹が密生したもので、当初の予想以上に苦しかった。それだけになおさら、今回踏査した分水嶺は、薮から掘り出した宝物のように思われるのである。
嬉しいことも多かった。登山がたくさんできた。多い時は1日おきに山に入った。分水嶺上を歩くこと自体が楽しかった。分水嶺を東から西に向かって歩いていると、右手は日本海、左手は太平洋と、両方の大海原をわが手でつかんでいるかのように思えた。日本山岳会として北海道から九州まで日本列島を大縦走しているのは、実に豪壮な気分であった。また、サポート隊の出迎えは、仲間意識が強まり、組織の有り難さを味わった。とうてい無理と思っていた分水嶺が完全に踏査でき、以前行なった山陰の百山や県境の山という点が線で繋がれた。我らの身近な山々が完全に我が物になったようで何より嬉しいかぎりである。
(藤井信一郎)
犬狭峠でサポート隊とともに(2005午7月10日)
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